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作曲家の懐具合 [音楽のこと]

今年最後、平成最後の年の瀬の「ワンコイン市民コンサート」は『田中正也ピアノリサイタル』・・・なのですが、そのサブタイトルが『作曲家の懐具合』となって、まさかピアノ演奏ではなく、算盤を弾いて、電卓を打つ、平成最後の締め、年末大決算的な公演となるのでしょうか?
ならばワタシはスタッフとして、損益計算書と貸借対照表でも作りましょうか(商業簿記4級)?


田中正也さんは、

福岡市生まれ。15歳で単身モスクワへ。繊細かつ大胆な感性をもつピアニストとして内外で演奏活動を展開。
クラースヌィ・ディプロマを授与されモスクワ音楽院を卒業後、ローム・ミュージック・ファンデーションより奨学金を得てモスクワ音楽院大学院修了。ネルセシアン、ヴォスクレセンスキーの両氏に師事。カントゥ国際ピアノコンチェルトコンクール(伊)第1位・リスト特別賞,スクリャービン国際ピアノコンクール(仏)第1位・審査員特別賞等、受賞多数。国立サンクトペテルブルグ カペラ交響楽団・サマーラ国立交響楽団・九州交響楽団等ほか、2017年都民芸術フェスティバル オーケストラ・シリーズにて東京フィルハーモニー交響楽団と協演。
2008年始動したプロジェクト「プロコフィエフピアノ曲全曲演奏シリーズ“エクスクールスィャ”」はモスクワでも高評を得て、2012年プロコフィエフ博物館ホールにて邦人初となる全ロシアグリンカ記念音楽文化協会主催演奏会をオールプロコフィエフプログラムで開催、2013年プロコフィエフの誕生日に同ホールでの没後60年メモリアルコンサートにも招聘されるなど、プロコフィエフのスペシャリストとして期待されている。2017年プロコフィエフゆかりのリヒテルの家記念館(モスクワ)にてソロリサイタル開催。 2018年アレグロ青少年国際コンクール(ロシア)の審査員に招かれる他、エルミタージュ美術館で学芸員とのコラボコンサート、モスクワ音楽院ラフマニノフホールでのリサイタルなど、ロシアでの活動も著しい飛躍をみせている。
2010年宗次ホールで始めた田中正也おしゃべりコンサート♪「魔法のピアノ」は楽しいお話と超人的な演奏で人気となり、全国に拡大中である。
音楽誌への執筆を手掛け、レクチャーコンサートや幼稚園・学校でのアウトリーチを行い、私立中高PTAを対象とする教育講演会「演奏と講話」も好評を博す。録音活動も精力的に行い、2013年「田中正也 プレイズ リスト&ショパン」、2014年「The 展覧会の絵」、2017年「リラの花」(ナミ・レコード)の各CDは音楽誌で高い評価を得、2015年リリースした「鐘~ロシア~ピアノ・デュオの世界 田中正也&佐藤卓史」(ナミ・レコード)は、「レコード芸術」2016年2月号特選盤に選ばれた。
日本・ロシア音楽家協会会員。日本演奏連盟会員。大阪芸術大学演奏学科講師。

・・・という経歴をお持ちのピアニストで・・・、

ワンコイン市民コンサート」には、『第31回公演 Russian Pianizm (2014年08月17日→記事参照)』と『第60回公演 <個と民族>ロシアとアルメニアの神秘と幻想 (2016年12月11日→記事参照)』、二度に渡ってご出演され、モスクワ音楽院で研鑽を重ねられたとあって、ロシア仕込みのロシア風味な演奏で、ハチャトリアンにチャイコフスキー、ラフマニノフ、スクリャービン、ムソルグスキー、プロコフィエフ、アルチュニャン、ババジャニャンなどなど、お得意のところをご披露くださいました。

三度目のご出演となる今回(シリーズ第85回)は『作曲家の懐具合』。前々回、前回から打って変わって、ファンタジーからエコノミー?

その懐具合・・・財政事情を探られるのは、

ドメニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti 1685年10月26日 ナポリ王国・ナポリ - 1757年7月23日 スペイン帝国・マドリード)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756年01月27日 神聖ローマ帝国・ザルツブルク - 1791年12月05日 神聖ローマ帝国・ウィーン)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770年12月16日頃 神聖ローマ帝国・ボン- 1827年03月26日 オーストリア帝国・ウィーン)
ヤーコプ・ルートヴィヒ・フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy 1809年02月03日 自由都市ハンブルグ - 1847年11月04日 ザクセン王国・ライプツィヒ)
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 1813年05月22日 ザクセン王国・ライプツィヒ - 1883年02月13日 イタリア王国・ヴェネツィア)
フランツ・リスト(Liszt Ferenc 1811年10月22日 オーストリア帝国領ハンガリー王国・ドボルヤーン - 1886年07月31日 ドイツ帝国領バイエルン王国・バイロイト)
セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(Сергей Сергеевич Прокофьев 1891年04月23日 ロシア帝国・ソンツォフカ - 1953年03月05日 ソビエト連邦・モスクワ)
アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg 1874年09月13日 オーストリア=ハンガリー帝国・ウィーン - 1951年07月13日 アメリカ合衆国・ロサンゼルス)
武満 徹(たけみつ とおる 1930年10月08日 日本・東京 - 1996年02月20日 日本・東京)

後期バロックから現代音楽、それぞれを代表するような9名の作曲家。
生存した時代も異なれば、活躍したお国もバラバラで、もちろん欧州連合(EU, European Union)統合前でユーロも無い時代。てか、非加盟国の方がほとんど、これではバランスシートを作る前に、レート換算が必要。算盤や電卓では追っ付かなくて、パソコンを持って行かなくちゃ?!

シリーズ第85回.jpg

というわけで(?)、本日も大阪大学豊中キャンパス大阪大学会館にて、開場14:30。

開場時に受け取ったプログラムによると、『作曲家の懐具合』に更に副題が添えられて、『楽曲様式発展の影の推進力』とある。
錚々たる作曲家たちの財政状況を探るだけではなく、どういう事情でそういう暮らしに至ったか、彼らが如何にしても活計の途を得たかを、彼らが物した作品との関わりから探ろうということで、税理的調査ではなく、学術的な研究・・・のようですよ。

その調査・研究のために(?)用意された楽曲は、

D. スカルラッティ:ソナタ d-moll K.141
W.A. モーツァルト:幻想曲 d-moll K.397
L.v. ベートーヴェン:ロンド・ア・カプリッチョ G-dur.Op.129 〈失われた小銭への怒り〉
F. メンデルスゾーン:無言歌集より ”ヴェニスの舟唄” Op.30-6
R. ワーグナー=F. リスト:イゾルデの愛の死
S. プロコフィエフ:束の間の幻影 Op.17より
S. プロコフィエフ:戦争ソナタ第6番
A.シェーンベルク:ピアノの為の組曲 Op.25
武満徹:雨の樹 素描(1982)

15:00開演。
チューニングを終えたばかりの1920年製Bösendorfer252が控えるステージに登場する田中正也さん。算盤も電卓もお持ちじゃ無いようで・・・。

まずは、後期バロックの代表、スカルラッティの「ソナタ」から。
sonata(ソナタ)」は器楽曲のひとつの形式。のちの時代には、3つから4つの楽章を含む、器楽演奏曲の基本形へと発展することになるのだけれど、スカルラッティの時代はまだ、「歌唱曲」を意味する「cantata(カンタータ)」と対になる「(器楽)演奏曲」といった意味合い。
時代からして、チェンバロかフォルテピアノのための楽曲だったのでしょうが、正也さんが演奏するヴィンテージ・ピアノはそれを連想させるように典雅で華麗。
このピアニスト、立ち姿もシュッとして、多分ご来場のマダム好みなのでしょうが、その姿勢の良さが演奏にも表れているようで、鍵盤との距離感というか、楽曲との間合いがいい感じ・・・に思えます。のめり込み過ぎず、もちろん、突き放すわけもなく、その滑らかな抑揚が適度に端整で、折り目正しさを伴って、高貴で上品。ロシアはロシアでも、ロシア連邦ではなく、ましてやソビエトでもなく、帝政ロシアなニュアンス・・・はこういう雰囲気かしら・・・と思わせるような。いや、もっとはんなりとしなやかでしょうか。

2曲目に進行する前に、ワンコイン市民コンサート実行委員会代表の荻原哲先生もご登壇されて、さて、『作曲家の懐事情 - 楽曲様式の影の推進力』とやらの検証です。

スカルラッティは、イタリア・ナポリの出身で最初のキャリアはその地の教会付き作曲家兼オルガニスト。
そこを離れ、武者修行の末(?)、35歳の頃にポルトガル王国ブラガンサ朝第4代国王ジョアン5世(寛大王)のお抱え楽師長兼その王女、マリーア・マグダレナ・バールバラの音楽教師となり、王女がのちのスペイン帝国バルボン朝第3代国王フェルナンド6世(慎重王)となる王子のもとにお輿入れするに当たり、それに付き従ってスペインに人事異動(?)、転属。
10歳前後から教えを受けた26歳年上の作曲家、よほどそのお姫様のお気に召していたのでしょう。音楽によって気脈が通じ合ったのか、父親代わりであったのかも知れず。
王家お抱えというと随分リッチな響きですが、豈図らんや、それほど贅沢でもなく、お給金も歩合制で、それがためか「王女のための練習曲(ソナタ)」だけでも555曲を数える量産体制。王女付き家庭教師だけでは賄えず、「室内カンタータ」や「シンフォニア」、「オペラ」まで書いて、晩餐の席でのホスピタリティ、サロンでのコンサート、何でもござれの大活躍。

ワタシの業界でも、プログラムは1ステップ(1行)で¥X,XXXだったり、ドキュメントも1ページで¥X,XXX~¥XX,XXXと細かく相場があって、パッケージとなると¥XXX,XXXから上は上限無し? ではあるのですが、ワタシ個人の収入となると・・・。
それなりには頂戴しているのですが、何しろ、財務は完全に奥様に握られて、ワタシの懐には年中木枯らしが・・・。サムイッ!!

閑話休題。ワタシのことなんてどーでもよろし。
300年も昔、バロック期の作曲家も事情は似たようなもの(?)で、すまじきものは宮仕え?! 作曲印税とか歌唱印税、著作権なんてェものはずっと後の時代、ましてや出来高制の宮廷専属、作品を書かないことにはお手当は得られない。おまけに、気に入らなくなれば解雇を申しつけられるかも知れず、歩合制の出来高払いでは公務員的安定感も希薄。
それでも長きに渡って勤めたのだから、それなりにいい暮らし向きではあったのでしょう。

というわけで、俎上に載せる二人目は古典派代表のアマデウス・モーツァルト
5歳で作曲を始めたという”神童”も金勘定は得意ではなかったようで、父レオポルトとともにザルツブルク大司教の宮廷に仕官する一方で、父に連れられての巡業生活、ウィーン、パリ、ロンドン、ミラノ、ボローニャ、ローマ、ナポリ、et cetera。ザルツブルク大司教邸よりいいところに就職しようといわゆる就活も兼ねてのツアーは同時に彼の金銭感覚を狂わせちゃったんでしょうね。
音楽を学びはしても、経済学、経営学・・・どころか算数や一般教養すら誰にも教わっていなかったのかも。何しろ”神童”、あまりに天衣無縫・・・無法に過ぎたのでしょうか。っていうか、連れ回していたオトーチャンの営業力が今ひとつ?!
いい就職口が見つからず、オーストリア・ウィーンのシェーンブルン宮殿で神聖ローマ皇后にして、ハンガリー女王、オーストリア女大公、トスカーナ大公妃であらせられる「女帝」マリア・テレジアやその皇女でのちのフランス国王ルイ16世の王妃マリー・アントワネットとなるマリア・アントーニアに謁見しても、当時のローマ教皇さま、クレメンス14世に御目通りしてもそれが就職に結び付かなかったのですから、何のためのヨーロッパ・ツアーだったのか。余程素行に問題があったのかしらン。
永く止まったパリでは演奏家としてそれなりに好評だったにも関わらず、収入には結びつかず、挙句、25歳の頃にはザルツブルク大司教から解雇の申し立て、当時活動していたウィーンにそのまま暮らすことになってしまう。
神童も、嗚呼しんど・・・と言ったとか言わなかったとか・・・(どうもすみません)。
その後フリーランスな作曲家、演奏家として活躍。才能は枯渇することなく多くの作品を残すことになる。その出版や音楽教師として、暮らし向きはそれなりに悪くはなかったのでしょうが、その分お金遣いが悪かった。
発展著しいフォルテピアノの新型が発表されたらそれを買い占めちゃって、3台も並べる演奏会をプロデュースしてみたり、より大きな作品を手掛けようとしてみたり、枯れることのないタレントをお金とともに無駄遣い?! 多くは今日まで名曲として遺っているのだから浪費とは言えないでしょうが、あまりに天才過ぎたのでしょう。
彼の場合、幼少期から神童ぶりを褒められ過ぎて、窮屈な宮仕えは性に合わなくなってきたのでしょう。それなりの報酬を得るために望まれる楽曲を書くよりも、俺は俺の書きたいものを書く、弾きたいものを弾く・・・とロック的志しが芽生えちゃった?! 泉の如く溢れる才能は小さな盃では受け止め切れない。
それでも、彼が多くの楽曲を作ったのは、ある種プロモーションのため。何しろ食べていかなきゃいけないし、場合によっちゃあ、ご注文を受けてもいい。
巡業先での演奏を褒められこそすれ、芯からの良き理解者が得られなかったのでしょうね。おまけに、愛し合った従姉妹や音楽家の娘とは引き離され、パリまで同行した母はその地で客死してしまい、言いようのない孤独感。その寂しさから父の反対を押し切ってコンスタンツェと結婚することになるが、最初の子供は幼くして旅行中に死亡。次男カールは無事に成長するも、三男ヨハンは嬰児のうちに亡くなる。結果6人の子を為したが、無事成人したのは2人だけ。それがもとで夫婦仲も冷たいものとなって来たのでしょう。アマデウス自身の兄弟達も何人かは夭逝し、幼少期に一緒に巡業し、クラヴィーアを連弾した姉とは遠く離れたまま。そうするうちに父も亡くなって、ウィーンでの疎外感、孤立感が彼の作風をより内省的なものに変えて・・・。
あれ、想いが高まって筆が奔って、懐事情から話しが逸れて来ちゃいそう!!
協奏曲や交響曲、大きな作品を作る機会に恵まれてそれが演奏されるチャンスもあった彼はまだ幸福。サロンでの演奏会もまずまず好評、オペラもそれなりに評判になって、そんなに暮らし向きも悪くは無かったはずなのですが、寂しさからか憂さ晴らし、ギャンブルにハマっちゃったから、さァタイヘン!! それ故の借金苦。やっぱり金銭感覚が・・・。

三人目は「楽聖」さま。憧れのアマデウス・モーツァルトに倣ったのか、ベートーヴェンも宮仕えはせず、作曲家兼演奏家、音楽教師として生計を立て、多くのパトロンを得るも、その専属、お抱えとはならず、生涯フリーランサー。
彼が移り住んだ頃のウィーンは完全に「音楽の都」として機能し、楽器工房も多く、演奏家も多数居たうえ、やんごとなき方々のご邸宅での演奏会も頻繁、音楽出版や音楽業界としてのシステムも完成していたのでしょう。人気さえ博せば、それが作品として売れたのでしょう。モーツァルト以上に多くの大作を残すことになる。
大きな演奏会用の管弦楽からこじんまりしたサロン用の器楽曲、歌曲まで網羅して、その作品数からしてそれなりにお稼ぎになられたはず。しかし、この先生も楽器道楽?! 新しいフォルテピアノが出るたびに我慢出来ずに買っちゃうの。レスポンスが向上したり、音域が広がったり、確かに所有欲はそそられて作曲にも有用なのでしょうが、その数、生涯で10数台。必要経費で落とせる? いかに商売道具とは言え、そんなことしたら奥さんに叱られちゃうで・・・って、この方、ずっと独身でしたね。
大体、演奏家、ミュージシャンは”弘法筆を択ばず”とはいかず、ついつい高価な楽器を手に取ってしまう。度が過ぎると、コレクションまでしちゃう。楽聖さまから今に続く伝統・・・ですか。おかげで、ヴィンテージ物のギターやピアノ、オールド・ヴァイオリンなどなど楽器に関わるバブルだけは崩壊を知らず、天井知らずでプレイヤーの懐事情を苦しくさせる?

続くはメンデルスゾーンで、このお方はちょっと別格。超裕福な銀行家の御曹司に生まれ、生来の神童的才能は英才教育によって見事に開花。何しろ、名のある音楽家、画家、科学者を自宅に招いてその教えを受けられるというご身分。当時最新鋭のピアノが自宅にあって、その傍らの書棚には過去の作曲家が物した楽譜やその他小難しい書籍がズラリと並んでいたのでしょう、多分。
それがために、彼の作品は誰かに似ている、誰々の影響というより、それまでの西洋音楽の集大成的。偏向することなく古典を纏め、生来の才能とボンボン育ちの気品からそれにロマン主義のエッセンスを加味して、彼独自の世界観を齎す物となった。
9歳でコンサート・デビュウを果たしたそうなのですが、何方かの依頼で楽曲を作る必要がないわけで、コストなんて細かいことも抜きに出来て、束縛なく自由にやれるというのは創作家の夢。で、彼が創り出す旋律は羽根を得たかのように気ままに飛び交うことが叶ったわけですな。
後々の世には「ハングリー精神」なんて言葉も出来ますが、彼の場合は何不自由ないからこそ美しい楽曲を著せた。って、結局、経済的なことより、本人の資質に寄るところが大きい・・・ってことですか?

コスト度外視で大きなことをやり過ぎちゃったのはワーグナー
「歌劇(オペラ)」で飽き足らず、「楽劇(ミュージックドラマ)」を創作したのはいいけれど、そのどれもが超々々大作。一番短いとされる「さまよえるオランダ人」でさえ2時間を超えて、「ニーベルングの指環」なんて、4部を4夜に分けて、トータル15時間!! TVの年末特番かっちゅうねん!!
ステージ上の登場人物は多いわ、オーケストラ・ピットに配置される楽器編成も膨大だわ、余りに大掛かり。
上演時間が長いということは、制作時間も長くなって、同作品は35歳から始めて、4部が完結したのは61歳の時。実に26年!! 短い作品でも1年前後は掛かっているらしい。
ただただ長い、ただただ大掛かり・・・という訳ではなく、それまでにない新しいこと(書き出すと長くなりそうなので割愛)も試みて、それが多くのシンパを生んで”ワグネリアン”なんて言葉まで造語されるようになった。
このお方のエライところは、それらの制作に当たっている間も糊口を凌ぐため、また小さな劇場向けだったり、多少小さめの作品も作り、単独の歌曲も書き、多くの書籍も執筆、出版。ある意味仕事の虫だった・・・どころか、バイタリティが漲り過ぎ!!
バイエルン国王ルートヴィヒ2世の後ろ盾があったとはいえ、自分専用の劇場「バイロイト祝祭劇場」はこさえちゃう、その間に、最初の妻が病死、多くの女性と関係を持って、その中にはフランツ・リストの娘コジマがいて、いわゆるW不倫の末に再婚するも、懲りずに不倫を重ねちゃう。
若い頃(一時は宮仕えもしたものの)に芽が出ずに各地を転々と流転していた反動なのか、鬱屈したものがある時爆発しちゃって歯止めが効かなくなっちゃったんでしょうか。女性関係がお盛んなだけでなく、浪費癖もハンパなかったんだとか。作品が豪快なら、生活もバブリー。

流転といえば、ロシア革命時に帝国の崩壊を見届け、同地を離れての亡命生活を強いられたプロコフィエフ
ウクライナに生を受け、5歳で作曲を始めたというから自宅にピアノがあって、13歳で帝国の首都に上りその地の音楽院で研鑽を重ねたというのだからそれなりに裕福でもあり、生来の才能もハンパなかったんでしょう。
革命が起こったのはプロコフィエフが26歳の時。その少し前にロンドンやイタリアを訪ねて、セルゲイ・ディアギレフやイーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキーと邂逅。それがきっかけとなって、自由を求めて祖国を離れる決意をするが、その旅はすんなりとはいかず、シベリア経由で日本に入り、そこで船便とタイミングが合わずに長く足留めされることになる。
大田黒元雄らの支援もあって、旅費を捻出するために日本各地で公演を行い、その甲斐あってアメリカに渡り、しばらく後にバイエルンからフランス、友人・知人を頼って転地を繰り返し、その遍歴の中に在っても望郷の念捨て難く、ソビエト連邦の首都へと様変わりしたモスクワに移るが、第二次世界大戦勃発、ドイツ軍の侵入で地方都市への疎開を余儀なくされる。終戦後にモスクワに戻るが、次に待っていたのはその作風に対する謂れの無い批判。事故による後遺症から体調の優れない中、それでも1953年に61歳で亡くなるまでモスクワに留まった。
幼少期やバイエルン、フランスに在った頃はいざ知らず、亡命時の移動が困難を極め、日本に長く足留めされた折りは旅費を工面するために、急な事とはいえ、音響の良くない会場で音の良くないピアノでの演奏を余儀なくされて、ロシア帰国後は批判も受けて、金銭面だけでは無い苦労がおありだったのでしょうが、このお方の場合は知己に恵まれたと言いますか、いい刺激を分かち合って、場合によっては仕事も当てがってくれて、友人・知人がプライスレスな財産となったのでしょう。

こうして見ると、金銭事情以上に、スカルラッティは宮仕えの辛さ、モーツァルトは天才ゆえの孤独、ベートーヴェンは聴力障害との闘病、メンデルスゾーンは裕福であってもその出自ゆえの迫害と差別、ワーグナーは派手好みが過ぎたのか浪費とともに女癖の悪さ、プロコフィエフは友人、知人には恵まれたものの革命に翻弄されて、シェーンベルクも血統と宗教、ナチス・ドイツからの逃亡、亡命。
懐具合よりアタマが頭痛してしまいそうな、波乱の人生。「苦悩を突き抜け歓喜に至れ」と楽聖さまが仰有ったとか仰言って無いとか。この作曲家たちはその作品の演奏でエクスタシーを感じ得たのでしょうか。
浪費癖や身持ちの悪さ、不倫癖は論外として、それぞれを主役にした大河ドラマが書けそうですな。

そして、『楽曲様式発展の影の推進力』。
大きな楽曲を書いて、大部な楽譜を出版、大金を得たいところですが、売れないものはそうもいかず、多くの作曲家は需要の多い小品や練習曲、やんごとなきお姫様や麗しきご令嬢のための歌曲を手がけることになって、少しでもヴォリュームを上げて、対価を大きくしたいからと曲集に纏めちゃったり、カップリングしちゃったり・・・。現在のレコードやCDのアルバムと発想は同じ?!
大きな作品はよりダイナミックになり、小品はよりキャッチィで個性的、受けのいいものに洗練されていった・・・ということですか。

と長々書き連ねている場合ではありません。正也さんがBösendorfer252にスタンバイ。2曲目が始まっちゃいます。

前半の残り、アマデウス・モーツァルト作曲「幻想曲 ニ短調 K.397」から。
この哀感溢れる楽曲は、本来未完の作品で、作曲家でオルガニストのアウグスト・ミュラーによって補筆されたと言われる。
1782年ごろ、ウィーンに在って、大司教からクビを言い渡された後に作られ、未完のまま放置されたもの。
音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーとの結婚を父に反対され、ウィーンでも冷遇され、母はパリで亡くなり、職まで失い、アマデウスが失意のドンドコにあった頃でしょうか。哀しげではあるのだけれど、まだ希望を失っていない、その美しさに翳りは見られない作品。後半の明るくてノーテンキな部分が補筆箇所。

それに続く、ベートーヴェンロンド・ア・カプリッチョ ト長調 作品129」も未完成をのちに補筆されたもの。 〈失われた小銭への怒り〉、自販機でお釣りを取り忘れちゃったのかと思うようなタイトルものちに付けられた。
運動会で使われても違和感ないような快活なロンドを伴った奇想曲。
楽聖さまが小銭を失くしたとは思えないけれど、何やら慌ただしげで何処かでお財布失くしちゃった感はありますな??

無言歌集」より 『ヴェニスの舟唄 作品30-6』は、全8巻、48曲からなる、フェリックス・メンデルスゾーンが生涯に渡って書き連ねた「無言歌集」・・・ピアノ独奏曲集の第2巻の最後、第6曲。この曲集の楽曲に付されたタイトルもほとんどが後付けですが、3曲もある「ヴェニスの舟歌」はフェリックス自身によるもの。
大金持ちのボンボンですからヴェニスに遊んだところで何の不思議もないのですが、運河を行くゴンドラからまさか小銭を落としたわけでも、舟酔いしちゃったわけでもないのでしょうが、この物哀しさは何でしょう。

イゾルデの愛の死』は、リヒャルト・ワーグナーが作曲と台本を担当した楽劇「トリスタンとイゾルデ」の第3幕終結部で歌われるアリア『愛の死』を、義兄となったフランツ・リストがピアノ独奏曲にアレンジメントした作品。
トリスタンの死を悼みながら、自らもブランゲーネの腕の中で事切れようとするイゾルデ。その朗々としたアリア、耽美な歌詞、ロマンティックでセンチメンタルな主旋律に心奪われるのですが、それに伴うハーモニーが曲者。歌うのも大変でしょうが、ピアノ独奏になると難易度がグンと上がっちゃう。

前半の最後を飾るプロコフィエフ束の間の幻影 作品17」。全20曲からなるピアノ独奏のための性格小品集・・・なのだけど、そのどれもが短小で、長いものでも2分前後、短い曲は1分あまり。
この作曲家と同様に、革命時にドイツ経由でパリへと亡命を果たしたロシア象徴主義の詩人コンスタンティン・ディミトリエヴィチ・バリモントの詩からの翻案・・・なのですが、短過ぎて、また実験的で調性感も希薄、その詩のニュアンスを伝えるのはタイトル「Visions Fugitives(束の間の幻影)」だけ?

楽曲からそれを物した作曲家の懐具合までは見通すことは難しいのだけれど、正也さんの演奏は楽曲の中に潜んだ作曲家の心象を優しく柔らかなタッチで描き出しているように感じられました。
やはり、鍵盤との距離感、楽曲との間合い・・・でしょうか、自己陶酔するような感情過多にのめり込んだ演奏ではなく、聴衆にいい音、いい響きを聴いて頂こうというスタンスなのでしょう。スマートでセンシティヴ。

15分の休憩を挟んで、後半は楽曲解説から。
プロコフィエフが亡命先からソビエトの首都に様変わりしたモスクワへ帰国後に表した通称「戦争ソナタ 第6番 イ長調 作品82」。「第7番 変ロ長調 作品83」、「第8番 変ロ長調 作品84番」とともに大戦時に書かれたというだけで、戦争を礼賛している訳でもなければ、この楽曲で鼓舞せしめようというお積りもないはずで、この通称は後々に付けられたもの。評論家のセンセーなのか、音楽通なのか、ちょっとネーミング・センスを疑います。
どちらかというと、軍靴に踏みにじられ汚されていく祖国に手向けた悲しみ、先行きの見えない不安、その未来に向けた希望の祈りとも感じられるのですが、正也さんの想いはどうなんでしょうね。

シェーンベルクはウィーンに産まれながら父母がユダヤ系だというだけで理不尽な扱いを受けた苦労人。昼は銀行に勤めながら夜学で音楽を極めたお方。
反骨精神旺盛なのでしょうか、カトリックからプロテスタントに改宗後、ナチスに対抗してユダヤ教に入信。
従前の音楽を嫌って、「無調音楽」をより推し進め、前衛的な「12音技法」を編み出してしまった人でもある。
ナチス・ドイツから逃れてアメリカ移住。南カリフォルニア大学とカリフォルニア大学ロサンゼルス校で教鞭を執っておられたのだから、その研究心もハンパなかったのでしょう。作曲家で演奏家で元銀行員で現教員。今日取りあげられる作曲家の中では、懐具合が分かりやすいような解りづらいような、一番給与明細がハッキリしてる?
6曲からなる「ピアノの為の組曲 作品25」から『4.Intermezzo』、『5.Menuett』、『6.Gigue』。それぞれ『間奏曲』、『メヌエット』、『ギーグ』と古典に倣った名前を与えられているけれど、「12音技法」を極めつつあった頃に作られたとあって、全くの新機軸、シェーンベルク独自のスタイル。調性感が曖昧なのはいいとして、終止感も薄いのでついつい拍手を忘れちゃう?!
窓の外は徐々に黄昏て行く師走の夕景。それが曖昧な調べとマッチして、何とも幻想的であることよ。

プログラムの最後は、武満徹雨の樹 素描(1982)」。
誰かにつくことを嫌ってほぼ独学。その後に様々な分野の若手芸術家が集った「実験工房」に身を置いたことから当時の楽壇からはシカト・・・外方を向かれ、彼を面白がったのは映画やテレビなどの映像メディア。
叔母が生田流箏曲の師匠であったためか、和楽器を用いた楽曲も多く、独自の編成で西洋楽器と合わさることで他に類を見ない世界観を齎らす。
映画音楽やテレビの劇伴音楽も多く作り、評論や執筆も多く残ることから、懐具合はそれらのオファーに影響されていたのでしょう。
雨の樹 素描」はノーベル賞作家大江健三郎の連作小説『「雨の木」を聴く女たち』の第1作『頭のいい「雨の木」』からのインスパイア。先に三台の鍵盤打楽器のための作品「雨の樹」があって、このピアノ独奏も新たに書いたのですから、よほど「雨の木」がお気に召したのでしょう。
そして、この楽曲が演奏されるかしないかという刻限に、大阪大学会館の外、待兼山にも冷たい雨が降り出して・・・。
今日のお天気を予想してのプログラムではないはずで、その演奏力が雨を呼んだ訳ではないでしょうが、何とも幻想的な心持ち。待兼山の森にもRain Tree(レイン・ツリー)があるのかしら・・・と意識は宵闇の学庭に飛んでしまう。

最後の「レイン・ツリー」によって、この何の脈略も無いように思えるプログラムが、樹齢300年の大樹、作曲家の細やかな機微の連なりとしてひとつに連なった・・・とも感じられました。

アンコールはフランツ・リストラ・カンパネラ」。
十二月とあって、聖夜に響く「」、それとも除夜の「」かしら・・・とも思ったのですが・・・、もしかして「懐具合」→「お金」→「」??
最後はまさかのダジャレ落ち?! お後がよろしいようで・・・。

さて、今年はこの公演でお仕舞いとなりますが、2019年もまだまだ「ワンコイン市民コンサート」は続きます。
年明けの1月は『モスクワからの響き』と題された、チェリスト、ユーラ(Yuran)さんとピアニスト、沼沢淑音さんのデュオ・リサイタル。
01月18日(金)開場14:30開演15:00。時間はいつもと同じですが、日にちが金曜日となりますのでお間違い無きようご注意を!!
プログラムは、
J.S. バッハ:「オルゲルビュヒライン(オルガン小曲集)」より『コラール前奏曲「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」BWV639
L.v. ベートーヴェン:「チェロとピアノのためのソナタ 第3番 イ長調 作品69
E. グリーグ:「チェロとピアノのためのソナタ イ短調 作品36
が予定されています。
ともにモスクワ音楽院で研鑽を重ねられたお二方によるチェロ・ソナタ。有給休暇を取ってでも駆けつける・・・べきですよね。

続く2月は『ポスト・バレンタインズデー・コンサート』。「若手フレッシュアーティストたちによるピアノリサイタル」となって、9名のうら若きピアニストが1920年製Bösendorfer252と向き合います。
大西 和香(おおにし のどか)さん:プロコフィエフソナタ第3番古い日記帳から
藤村 星奈(ふじむら せいな)さん:プロコフィエフ風刺(サルカズム)
徳永 紗絵子(とくなが さえこ)さん:ベートーヴェンピアノソナタ第26番告別」より第2、3楽章
澤田 愛音(さわだ あかね)さん:サン=サーンスアレグロ・アパッショナート
梅井 美咲(うめい みさき)さん:梅井美咲自作自演
久保 英子(くぼ はなこ)さん:ラフマニノフ:「楽興の時」より
林田 彩愛(はやしだ さえ)さん:三善晃ソナタより第2、3楽章
田村 果林(たむら かりん)さん:ショパンバラード第1番
須鎗 幹子(すやり みきこ)さん:リストバラード第2番
というプログラムになります。
開演はヴァレンタインデーではなく、02月22日(金)。こちらも金曜日となりますが、時間は、開場14:30開演15:00

2公演とも、現在予約申し込み受付中。


合わせて、
ピアニスト、米国イーストマン音楽学校名誉教授 バリー・スナイダー氏によるマスタークラスが02月03日(日)に催されます。こちらは日曜日。直接受講だけではなく、出入り自由の聴講も申し込み受付中。ご興味のある方は是非。

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