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今日は能尽くし その2 [散歩・散走]

百の面(おもて)に魅入られて、美術館「えき」KYOTOに長居し過ぎてしまいました。午後の予定に向けて、金剛能楽堂まで光の速度で移動します。


全国20地域・35会場・71公演という規模で催される能楽の祭典が「日本全国能楽キャラバン!」。
その一環として、能楽五流の中で唯一、宗家が京都に在住する金剛流の能楽堂で行われるのが『日本全国能楽キャラバン! In 京都 金剛流 京都能楽紀行』。
昨年10月を皮切りに4公演のスケジュールで、今日がその最終回。
4回それぞれにテーマが設けられ、お能の鑑賞会に留まらず、上演曲の内容に関わりの深いゲストが招かれ、演目に因んだトーク・セッションがなされるというイベント企画。各回のタイトルに揚る社寺から宮司さんや禰宜さんがお出ましになり、能に関わるお話しをされたようで・・・。
第1回が「貴船神社と能の怨霊の世界」がテーマで『鉄輪』が演じられ、第2回が「清水寺と能」で『田村 白式』、第3回が「北野天満宮と土蜘蛛伝説」で『土蜘蛛 千筋之伝』、そして第4回が「歌会と宮廷文化」で『草紙洗』。タイトルだけでワクワクしちゃうような・・・。
4回全て伺いたかったのですが、そのうち1回は平日夜の開催で、あとの2回は顔馴染みが揃うガムランのイベントと日時がカブってしまい、空いているのは今日しかなくて、今日は他にバッティングする事柄もなく万難を排して鑑賞に臨めることになって、世情もあってそうそう連日遊び回っているわけにもいかないから01月02日から02月06日を会期とする『能面100』鑑賞も今日としてダブル・ヘッダーの組み合わせ、お能尽くしの一日にしちゃおうという作戦ですな。
ハラガヘッテハイクサガデキヌ。美術館からそのまま駅ビルでささっと中食を摂って13:00の開場を目指して金剛能楽堂まで来てみたら、それを過ごしてしまい、全席自由の見所(客席)はあらかた埋まって、正面は満席、脇正面も七分方、中正面がチラホラと。目付柱が邪魔ではあるが中正面の席を得て、息を整えながら開演を待ちます。

能楽紀行.jpeg

金剛流 京都能楽紀行』4回シリーズの最終回。
今回のテーマは、新春に相応しく、華やか雅やかに「歌会と宮廷文化」。
お能は和歌とも深く結び付いて、それから起こされたストーリーもあり、シテ方がいにしえの歌人を演じる曲もあって、歌人がモデルとされる面(おもて)もあって、「平家物語」や「源氏物語」、「伊勢物語」から取材された作品も多く、能を知ると詩歌も識れて、古典文学を広く通暁出来ちゃうのではないかと思えるほど。日本の伝統文化の象徴のようにも思えます。
能舞台という特殊な空間装置の中で、和歌や文学を仮想現実化する環境芸能でもあるのでしょうか。世界初のミュージカルとも言われますが、現代に生きるワタシの眼にはとてもコンテンポラリーなVR(ヴァーチャル・リアリティ)と見える訳で。

初春の歌会は歌会始(うたかいはじめ)。
今も宮中で行われている行事であり、宮廷や和歌と関わりの深い、本日のゲストのお宅でも狩衣や袿袴など古式床しい平安装束に身を包んで執り行われている、新春を寿ぐ年中行事。
ということで、「歌会と宮廷文化」について鼎談されるのは、冷泉家時雨亭文庫常務理事冷泉貴実子さんと衣紋道山科家家元後嗣山科言親さん、コーディネイターとして金剛流若宗家金剛龍謹さんも並んで御三方。
鼎談に続くのが金剛流能草紙洗」。
他のお流儀では「草子洗小町」とも「草紙洗小町」とも呼ばれる曲で、三番目物、現在蔓物で大小物、シテ方がタイトルロールとなる小野小町を演じる。
実在性は疑わしくも絶世の美女とされて、和歌もよくされた伝説的な才色兼備の女流歌人は、「御伽草子」のうち「小町草紙」として伝説化、俗に「七小町」、「小町物」と言われるくらいお能や歌舞伎のタイトルにもなって、美人はとかく注目の的。当時の伝説上のアイドルでもあったのでしょう。美貌が衰えちゃった老後まで題材にされて、果てはその亡骸が朽ちていく様まで絵画にされちゃって・・・。
後の「九相図」はともかく美人画の画題ともなって、金剛流とも関わりの深い上村松園さんも「草紙洗小町」を描いておられて、その構図は、左手で歌集を開いて右手は扇を高く翳し、なかなかに面白い構図。和歌を寿ぐ祝言を表しているのでしょうか。絵画の中の小町さんは直面であって、能面のような表情に見えるところが「草紙洗」への思い入れ、ひいては金剛流謡曲への想いというところでしょうか。
草紙洗」を拝見することで松園さん描くところの小町さんのポーズの謎が解けるかどうか、ワタクシ的にも想いの募るところで。

14:00開演。
五色の揚幕が翻って、鏡の間から先ずお出ましになるのは、金剛流宗家金剛永謹さん。
口開けとしてご挨拶、ご案内があって、入れ替わりに橋掛かりを来られるのは、冷泉貴実子さん、山科言親さん、金剛龍謹さん。
舞台中央に用意された3つの葛桶(和風スツール)。藤原定家から連なる和歌の家、冷泉家二十四代為任氏の長女としてお生まれになり、二十五代当主夫人となられた貴実子さんがセンターを担い、地前には宮中御用の衣紋道を未来に繋ぐ山科流三十代家元後嗣、脇正にはコーディネイターとして金剛流若宗家。各々がそれぞれ相応しいお召し物。
講義ではなく鼎談ということもあり、分かりやすいようにと言葉を選ばれているのでしょう、冷泉家山科家は近しい間柄でもあり、ごくアットホームな雰囲気。ご両家の間柄がご紹介されて、御所を中心として育まれてきた文化についてそれぞれご専門の分野からお話しされて、明治の世になって殆どの「家」が東京へと移る中にあって京都に留まり伝統を伝えるご三家で1,000年のちの現代もそのスタイルが守られ続けているのが、本当に貴いと感じられました。

お話しは尽きないようですが、お後の用意も宜しいようで時も頃合い、プログラムはお能へと進みます。

歌会と宮廷文化」ということで、演目も「草紙洗」。
御所での歌合が後半の舞台となって、小野小町を始め、大友黒主紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑の、六歌仙三十六歌仙に連なる、名だたる歌人が登場する華やかで雅やかな作品。
旧暦卯月半ばの清涼殿で開催される歌会で、小野小町と相対することになったのが大友黒主。敵わぬと思い、前日に小町の屋敷に不法侵入し、彼女が詠唱する歌を盗み聴きし、それを「万葉集」に書き写し、歌会の席で小町が披露したお歌が新作ではなく古歌の盗用であると言い掛かり。
黒主が差し出す証拠の草紙を王の赦しを得て小町が洗ってみせると彼が書き加えたところだけが洗い流されて、小町の汚名も雪がれる。
罪を恥じて自害しようとする黒主を止める小町
和解を以て大団円は、和歌の徳を讃える小町の舞い。
お能にしては登場人物が多い作品となるのでしょう。シテが小野小町で、ワキが大友黒主。それを取り囲むツレが「古今和歌集」の選者から三人、紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑で、紀友則は「古今集」完成前に没しちゃったのでここには入れて貰えなかったのね?
艶やかさを加える官女が二人加わって、小方が演じる王(帝)までご列席されて、三間四方の舞台はフィジカル・ディスタンスも無きが如くに過密(!)な状態。シテ、ツレ、ワキに子方、間狂言だけでも8名で、お囃子方と地謠方、後見まで含めると22名。今時のことで、お囃子方や地謠方は透明アクリル板に隔てられているのがちょっと艶消し。

シテ(小野小町)        金剛永謹
子方(王)                南坊城碧子
ツレ(紀貫之)            廣田泰能
ツレ(凡河内躬恒)        宇高徳成
ツレ(壬生忠岑)        向井弘記
ツレ(官女)                今井克紀
ツレ(官女)                惣明貞助
ワキ(大友黒主)        福王知登
間狂言(黒主の下人)    善竹彌五郎
笛                        左鴻泰弘
小鼓                    久田舜一郎
大鼓                    守家由訓
後見                    豊嶋彌左衛門
                        廣田幸稔
                        宇高竜成
地謡                    今井清隆
                        金剛龍謹
                        豊嶋晃嗣
                        山田純夫
                        遠藤勝實
                        工藤寛
                        山田伊純
                        和田次夫
・・・という配役。

前半は、黒主が奸計を巡らせ小町の住まいに忍び入る、サスペンスフルな犯罪劇?
折りもおり、その企みを知らぬげに小町は和歌の始祖としての聖徳太子に想いを馳せて、歌合の課題「水辺の草」から”蒔かなくに何を種とて浮き草の 波のうねうね生ひ繁るらん”と詠む。
中入後、舞台は御所の一室。装束を改めた小町黒主にお歴々がずらりと居並び、女役三名は小面でしょうかぱっと見には見分けがつかない三姉妹風(?)で絢爛な唐織をお召しになって、男役は直面ながらそれに引けを取らない平安装束。小方が演じる王もお若いながらに気品を備えて優美な様で、オペラやタカラヅカに負けないくらいファッショナブル。
王に望まれて小町が披露した歌。仕掛けを施した草紙を差し出し、不審を訴える黒主。それを検証するのは名だたる歌人。
印刷物ではなく、手書きで書き写された当時の写本。中には異本もあってお歴々も知らないようなヴァージョンも存在したのでしょうか。それでも、昨夜書き入れられた工作は、子供じみた悪戯みたいに一目瞭然だと思うのですが・・・。身の潔白を訴える小町に対して、お歴々は言い訳がましいことは一層恥ずかしいことだと諭そうとして、当時はそんな風潮だったのでしょうか。王の御前で疑義を申し立てるのが恥ずべき行為なら、辯解することさえ恥ずかしい行いって?
宮廷歌人として名を馳せる面々にとって、それが古歌なのか新作なのかを即座に判断出来なかったことが一等恥ずかしいことだったんじゃないかしらン? 陰謀を以て罪も無い人を陥れることが一番恥ずべきことではないのン?
ましてや、王の御前での見苦しき有様。
黒主の奸策を見抜けず、小町の擁護も出来ないことへの恥ずかしさ。
奸策に気付くのは、「万葉集」に記された七千首、四千三百首を誦じているという小町さんばかり。王の赦しを得て草紙を洗っちゃう。
貴重な写本が水浸しになるのを許しちゃう黒主黒主だと思うのですが・・・。
ツッコミどころ満載(!?)ではあるものの、前半のサスペンスは文字通り洗い流されてカタルシス。ああ良かったねと思っちゃう説得力はストーリーの巧みさとそれを演じられる能楽師の技量から齎されるのでしょう。
お能の面白いところは、語りや謡いの中に自己紹介を兼ねた(?)モノローグが入ったり、流れるような割り台詞、渡り台詞で場面や状況をアピールされたり、初見でも筋立てやそれぞれの関係性が分かり易いところ。
この演目では、詩歌の始祖として聖徳太子衣通姫柿本人丸朝臣、「万葉集」に関わった奈良の天子や橘諸兄などなどを引き合いに出し、筋に深みと重みを与えているのも良いところ。
七小町」の他の作品での小町は、老いさらばえた果ての姿であったり、成仏出来ない亡霊となっていたりする中、この「草紙洗」だけは才色兼備で凛としたスーパー女流歌人として描かれて、作者不詳ながらフェミニストのお作(?)とも思えて、荒唐無稽ではあるものの観ていてスッキリ胸のすく筋立て。
小町の機微がよく現され、それはシテ方、金剛永謹さんやワキ、ツレ、囃子方、地謠方を含めた一座の演技力と用いられた面(おもて)の出来映えによる賜物なのでしょう。

金剛流能草紙洗」にたっぷりと感動を頂いて、帰る道々に松園さんの「草紙洗小町」が「草紙洗」とどう関わるのかを考えてみる。
能楽をして”夢幻の国、思慕の華、つねにこの世の芸術の極致の境”だと松園さんは仰言る。金剛巌師がシテを勤められた「草紙洗」をご覧になって、至妙の芸術に感動し、それを描いたと言うが、面(おもて)は付けず直面でいて能面のような中間表情に観え、左手に草紙、右手は扇を高く掲げて。
片膝を立て、もう一方は地に着けて。右膝が立って、左膝が伏せている形は金剛流の型に則したもの。
高く掲げられた扇は草紙を洗う水を入れた柄杓なり水盤なり、そうしたお道具の見立て。持ち道具や小道具が少なく、殆どを扇の見立てに置き換えてしまうお能の舞い。時にそんなお道具になったり、月や星、天体まで表現してみせたり。
背景は廃し、姿形はお能を写し、柄杓に見立てた扇を持たせ、お顔だけ面(おもて)に近い女の直面とし、能楽をスケッチしたようにも見え、伝説的な女流歌人そのままのようにも見え、松園さんにとっての”夢幻の国の美人像”としたのでしょうか。右手の扇はこの後のシーン、祝言の舞いをも表しているのでしょうか。

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