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はすのうてな [散歩・散走]

暑くて腹が立つほど(?)で、とても秋が立ったとは思えやしない。まァ、今日の最高気温をピークとして、盛夏の峠を超えて徐々に気温も下がり、幾分か過ごし易い残暑になっていく・・・と信じたいところ。
然して、夏の庭の花シリーズ2021(こんなタイトルでしたっけ?)もこれで御仕舞い、打ち止めとなって次回からは秋を探しに行く予定。
ともかくきょうの庭巡り、本日は北嵯峨辺り、大覚寺大沢池を訪ねます。


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街を行けば、先週までは日の出とともに大合唱していたセミたちが幾分か編成を減じたのでしょうか、声音も変わったように感じられて、少し気の早い秋のお花、芙蓉を眼にするようにもなりました。
そう言えば、ハスの美称も「芙蓉」で、初秋に咲くアオイ科フヨウ属の方は「木芙蓉」。区別するために、水場に咲くハスは「水芙蓉」。
だけで「ハス」を意味して、は「上品な花」を表すのだとか。
木芙蓉のお花も水芙蓉に似て、朝開いて夕方には閉じてしまう一日花。水芙蓉の方はもっと短くて、朝から昼までが開花時。木芙蓉は日替わりでかわるがわる幾つも咲いて、水芙蓉はひとつが三日ほど開いて閉じてを繰り返して散っていく。
水に浮かぶ方の「上品な花」を観るのがきょうの目的。

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大沢池
は平安時代前期、中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造されたといわれる日本最古の庭池。
この辺りはかつて嵯峨帝の広大な離宮があった地で、ご譲位されて太政天皇・・・嵯峨上皇となられたのちもこの地にあって絶大の権力を振るったことから嵯峨御所とも呼ばれたところ。
嵯峨帝は、文化、風流に通じたお方でもあり、漢詩や書をよくされて三筆の一人に数えられ、華道嵯峨御流の開祖とも伝わる。
また子沢山でもあって、嵯峨源氏が興ったところで、第十二源氏こと河原左大臣こと源融もそのお一人。嵯峨帝亡き後その広大な敷地の一部を受け継ぎ、トオルさんが光源氏のモデルとされることから、ここは『源氏物語』のお庭(のひとつ)ともなっている。
1200年の時を経て、今尚典雅な風情を伝える・・・のかどうかはよく分かりませんが、池に浮かぶ蓮華が多少なりとも心床しくしてくれる・・・はず。

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大沢池
は周囲約1㎞の日本最古の人工林泉で、洞庭湖に因んで「庭湖」とも呼ばれる。
池のほとりには、「望雲亭」、「心経宝塔」、「石仏」などが置かれ、池に注ぐ遣水は「名古曽の滝跡」から続き、池と滝跡が合わせて国指定の名勝になっている。
受付が備わる「大沢門」を潜ってすぐ右手が大きな茶席の「望雲亭」、それを横目に北に進めば「池舞台」があって、鳥居を潜ればご神域、弘法大師空海が勧請したと伝わる「五社明神」があり、大師がお建てになった持仏堂「五覚院」の「閼伽井」、自ら掘られた井戸が「閼伽堂」として遺り、岩倉山真性寺から移され石造りの大日如来坐像が鎮座する「大日堂」があって、歓喜天十一面観世音菩薩をお祀りする「聖天堂」、1967年に嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立された「心経宝塔」が並び、「護摩堂」の傍らには千年の風雪にさらされお貌の判別が出来ないほど風化した「石仏」が約20基佇む。

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小さな赤い橋を渡ると「天神島」で、その頃まだ都にあった菅原道眞公が一時大覚寺の俗別当を務めておられたご縁から、菅公をご祭神とする小さな「天神社」が「御神木(楠木)」と共に置かれる。

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天神島」の北側は「もみじロード」、その奥には「梅林」や「竹林」があって、池を取り囲むように桜も植えられ、春や秋の賑わいを思うと今はいっそう静かな佇まい。池の方からウシガエルの読経が聞こえるばかりで、ヒトの気配はおろか動くものは水面に映る雲と風に躍る梢だけで。
モミジやサクラは何れも青々と葉を繁らせて、天然の天蓋、シェイドをなして陽射しが和らぎ、心頭滅却すればの喩え通り、「立秋・涼風至」だと思えば枝々を揺らす風が随分と涼しげに感じられる。

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もみじロード」を東に抜けると、視界が開け、足元には細い水路。大沢池に流れ込む遣水にしては随分と小さいような・・・。
石組みで囲われているからここが源流かしらと周囲を見渡すと、10mほど北側には竹のバリケードで区切られた先に別の石組みがあってそちらが「名古曽の滝跡」。
石碑があるから分かったものの、無ければ多分見落としそう。断崖絶壁とは言わないけれど、それなりの高低差があるのかと思っていたのですが、平地に石が置かれただけ?

名古曽(かさ)なる????
離宮嵯峨院時代の滝殿庭園内に設けられたもので、『今昔物語』では百済川成が作庭したものと伝わる・・・のはいいけれど、もとより漢字には疎いが、意味、由来が思い浮かばない。「名古曽」ってナニ? で、ググってみる。
三十六歌仙のひとり、大納言公任こと藤原公任が詠まれて『百人一首』の55番に選ばれたお歌、「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」から付けられた名称であるとか。
ということは、公任さんの頃にはもう滝は涸れてしまっていたのでしょう、「名こそ流れて」から「名古曽(なこそ)」になった。なるほど。
んン?! なるほどやないがな。「名こそ流れて」というからは、元の名前があったのかしら? でなければ、固有名称は持たないけれど、評判から有名だったということですかね?
第52代嵯峨天皇のご在位が809年から823年で、ご譲位されて嵯峨院の始まりが833年、ご崩御が842年。トオルさんが六条河原院にお移りになられて河原左大臣となり、お邸があった辺りが浄土宗嵯峨釈迦堂清凉寺と改まったのが986年のこと。
966年にお生まれになってそれまで出世街道を驀進していた小野宮流藤原公任が、天皇の代替わりに連れて主流派のエリートコースから外れちゃって、変わってメインストリームとなった九条流藤原道長に追い越されることとなり、右大臣となった彼に随行してこの地を訪れ「滝の音」と詠んだのが999年09月12日のこと。
涸れた滝跡を詠んでいるようでいて我が身のことを詠ったか。名門に生まれついても栄耀栄華が久しく続くとは限らない。でもね、栄達の道は途絶えても、ワタシには「三船の才」があるのだよ・・・とばかりに、ちょっと負け惜しみ?
出世コースから外れちゃった中間管理職の悲哀と詠んじゃうと、胸に迫るものがありますなァ。しみじみ。ワタシにはマルチなタレントがあるのだよと自尊心を失わないあたり、他人とは思えませんなァ。栄枯盛衰、盛者必衰、諸行無常。
この先上手く立ち回らないと道真公みたく都を追われることになる・・・とまで考えちゃったのでしょうか。最終的には正二位の権大納言。娘を道長の息子に嫁がせるなどしてみてもそれ以上の栄達は望めずに御出家。
絶えて久しい滝の音」とともに多くの著作を残し、歌人として一千年後の今も「名こそ流れて」いるのだから、それほど不遇というほどでもないような。
そして、道長から連なる藤原北家御子左流のお生まれで、『勅撰和歌集』の編纂にも努め、『源氏物語』や『土佐日記』の書写もされた藤原定家によって『百人一首』に採録されたのが1235年。権中納言定家さんも何か思い当たることがあったのでしょうか。すまじきものは宮仕え、あァ、やだやだ。
1308年に後宇多法皇によって大覚寺は再興されて再び嵯峨御所のご威光を示すが、滝は涸れて石組みも放置されたまま。それでも、跡だけになっても歌通りに現代まで名物として遺っているのだから、大納言公任の歌の威力は絶大だったのでしょう。

涸れたのちに石組みの一部は他所へ運ばれて、絶えて久しく跡だけとなった「名古曽の滝跡」は、1922年に「大沢池」とともに国の名勝に指定されて、1994年からの発掘調査で中世の遣水が発見されて、1999年に復元されて今に至るが、パッと見には滝の名残りとも見えない小さな石組み。バリケードに阻まれもして、何処から来るのか水の流れも見えないけれど、耳を澄ませば水音が聞こえてくる。もしかしたらソラミミ? 耳鳴り?
これでは、マイナスイオンこと負の空気イオンO2-(H2O)nは発生しないでしょうが、いにしえの故事に想いを馳せて一盛一衰、その転変を思い今の時世と重ね合わせるとなんとなく寒気まで覚えます。
大沢と名付けられた池、そこに注ぐ遣水。かつてはもっと雄大だったかと想像するのですが、栄枯盛衰、滅びの美学、公任さんも定家さんも涸れ逝くものに心惹かれちゃったのでしょうね。

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そういえば、先達て訪ねた法金剛院のお庭にある「青女の滝」が日本最古の人工滝とされているのですが、ほぼ同じ時期の造営ですかね。
日本最古とされるこちらの庭池は後の池泉回遊式庭園ほど手のこんだものでもなく、法金剛院の浄土式庭園とも趣きを異にする。それほど華々しくもないのだけれど、こちらは嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道の一派「華道嵯峨御流」発祥の地ともなっていて、大沢池にある「菊ヶ島」に咲いた菊を自らお手折りになられて、それを花入れに挿したのが始まりで、生け花の序開とされる。
天神島」と「菊ヶ島」、それに挟まれた「庭湖石」の二島一石の景色を「景色生け」とし、その姿が「天、地、人」三才の美しさを備えていたことに感動され、「後世花を生くるものは宜しく之を以って範とすべし」と仰ったのが発端とされる。
最初の庭池で、極楽浄土に咲くとされる蓮華ではなく、そこにある小島に咲く菊が眼にとまったのは、その頃はハススイレンが無かったのか、季が違ったか。まァ、池の中にお手を入れて蓮華を摘み取るのは難しそう。浄土のお花を摘み取るのは罪?

ワタシは嵯峨御流に関わらず生け花の基礎さえ知らないのですが、二島一石のレイアウトより、より自然にあるように、「手に取るなやはり野に置け蓮華草」に通じるお言葉なのでしょう。
生け花の最初は神仏にお供えする供花からでしょうから、技巧的に造るのではなく、野にあるが如く自然体でということなのでしょう。

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今の季節は蓮華・・・ハススイレンが池の賑わい。それこそ菊の秋には観月会が催され、龍頭船が池に浮かべられるからか、池の面全てを覆うほどには繁茂せず、西側にスイレン、東側にハスと領域を分けて、龍頭船の船着場となる「望雲亭」前から池の中程は水面が開ける。
遣水が流れ込む辺りに二島一石の景色があって、滝と池の間、今は空き地になっている辺りに滝殿なり何か楼閣が在ってそこからご覧になっていたのかしら。現代は、二島一石越しに滝跡や赤い宝塔を眺めようと対岸がヴュウポイントにされている。池の周囲のそこかしこに石碑が有って、それを読んで巡るだけでもお勉強になりそうですが、悲しいかな刻字(の漢字)が読めぬ(泣)。

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で、ようやく・・・蓮華
大沢池にはスイレンハス
スイレンはおそらく西洋睡蓮で、ハスは滝から名を頂いた「名古曽」という固有名称を持つ古代蓮
端正な青蓮華スイレンと明媚な紅蓮華ハスが殆どでしょうか。広大過ぎる池に対して花数は少なく見えますが、葉の数からすると相当量。
陽が昇るにつれて開花し、それが中天に達する頃には閉じてしまうとなっているが、一斉に開く訳ではなく、早起きの花もあれば、遅起き(?)の蕾もあって、陽当たりの関係なのでしょうか。それとも、開いては閉じを3日ほど繰り返すというから、初手は堅く徐々に緩まってくるのでしょうか。
漢字ばかりで書かれた経典や仏典を紐解くことは難しく、ご教義を拝聴したところで恐らく理解は及ばないのでしょうが、こうして庭園の拵えやそこに咲くお花の有り様から教えを得るような思いがしてそこここにお庭を訪ねているわけで、今日は生け花の極意とは及ばずともその指標となった景色に教えられたような・・・。

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さて、陽が高くなって気温も上がり池端に長居していては熱中症にもなりかねない。お堂エリアに移ります。
真言宗大覚寺派大本山で、山号を嵯峨山とし、正式名称は旧嵯峨御所大覚寺門跡。開基は嵯峨天皇、開山はそのお孫さんの淳和天皇の皇子恒貞親王、御本尊は五大明王(不動明王降三世明王軍荼利明王大威徳明王金剛夜叉明王)。
離宮嵯峨院嵯峨天皇の信任を得た弘法大師空海五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが始まりとされる。
お堂エリアの受付横が下足場で、そこで靴を脱いで上がったところが本堂に当たる「五大堂」。
伽藍を構成する建物は、「村雨の廊下」などの渡り廊下で繋がっているものの、その殆どが後世に再興、あるいは他所から移築されたもので、「五大堂(本堂)」が天明年間の創建で、後水尾天皇より下賜された寝殿造りの「宸殿」、大正天皇ご即位に際し建てられた饗宴殿を式後賜り移築した「心経前殿(御影堂)」、1925年に法隆寺の夢殿を模して再建された「勅封心経殿」、京都東山にあった安井門跡蓮華光院の御影堂が「安井堂(御霊殿)」となり、南北朝媾和会議が行われたとされる「正寝殿」や東宮仮御所であった霞ヶ関離宮に建てられていた貴賓館「秩父宮御殿」、明智光秀が居城としていた亀山城から運ばれた「明智門」に「明智陣屋」、江戸中期に大沢池畔で建てられ明治期に移築された「庭湖館」などは通常時非公開となっている。
お寺の部分が公開されて、御所的要素がおおよそ非公開。
優雅にお花を生け、歌を詠まれたサロンでもあったのでしょうが、内裏を離れた門跡寺院は皇室ゆかりとはいえ、嵯峨帝のあと、大覚寺統後宇多法皇が中興されて院政を為した御所であり、雅びの暗部(?)、近代・現代なら赤坂辺りの料亭の一室でもたれているような密談が行われたところでもあって、五大明王に何を祈願していたのかと考えると少々そら恐ろしいような・・・。
ワタシ的には浮世(憂世)を離れ、政教ともに知らぬふり、世情も顧みず、お庭の池やお花を眺めて雅びに暮らしていたいと思う今日この頃。いっそ隠遁してしまおうかしらン!?

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mitubati

こんばんわ、お元気ですか? ブログが更新されていませんが、お忙しいのでしょうか。 私は毎月ワンコインコンサートに参加しています。コロナが収束してまたお会いできますのを楽しみにしています。
by mitubati (2022-01-16 21:32) 

JUN1026

mitubatiさん、コメントありがとうございます。
ご心配をおかけしているでしょうか?
元気ではあるのですが、年末年始の繁忙期に、随分と人手が減ってしまった職場で、お休みしている暇もないほどにバタバタしていました。
そのせいか、持病の腰椎滑り症が悪化して腰痛。帰宅して夕食、入浴のあとはバタンキューで、ブログ更新どころではなかったのです。
大阪大学へ通えないのは残念で、 mitubatiさんにお逢い出来ないのはとても寂しいのですが、それももうすぐ解消されると信じています。
by JUN1026 (2022-02-27 07:28) 

mitubati

ちょっと心配していましたが、安心いたしました。
お大事になさってくださいませ。
早くお会いできますようにお祈りします。

(黒薔薇さんのブログはとても勉強になります。)

by mitubati (2022-03-01 13:54) 

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