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避密の秘密の庭巡り [散歩・散走]

きょうのお庭めぐり。
まん延防止等重点措置が解除されたことに加え、お花見シーズン到来で遊客も増えちゃうでしょうからと、本日は繁華な辺りを避けて、避密の秘密の庭巡り?
職場がずぅっとクラスターに近い状況にあって、ワタシのオフィスは隔離された環境にあるとはいえ、感染(経験)者や(元)濃厚接触者に囲まれているような事態になってきて、ワタシは全然まったく感染する気配すらないのだけれど、出勤する度毎に身体中が消毒液に塗れていくような心持ちがして、アルコールに弱いこともあって些か酩酊気味。平静を保ちつつ、蔓延に加担しないようにと心掛けるが、だからといって休日に蟄居しているつもりはない。
賑わいを回避して、洛北西加茂界隈をぶらぶらいたします。


というわけで、先ず最初に訪ねたのは正伝寺さん。
臨済宗南禅寺派の諸山の格式で、釈迦如来をご本尊とし、東巌慧安を開基として1268(文永5)年に創建された、山号を吉祥山、正式な寺号は正伝護国禅寺と称する寺院。
そうした縁起や歴史をよくは存じ上げないが、鎌倉時代の禅寺で、方丈の前には枯山水の庭園が設られて、小堀遠州のお作と伝えられるそのお庭は岩を用いずに白砂とサツキの刈り込みで構成され、七・五・三の配置から俗に「獅子の子渡しの庭」と呼ばれていることは知っている。それに心惹かれもする。
創建当初は烏丸今出川付近に在り、そちらが比叡山延暦寺衆徒によって破却されたのちに現在の場所に移り、天皇家、将軍家の帰依を受けての再建後も応仁の乱によって衰退、豊臣秀吉や徳川家康の手によって復興されたものの、今はゴルフ場に囲まれるような形でほぼ方丈と庭園が残るのみ。

獅子の子渡し」または「虎の子渡し」は、宋時代末期から元時代初めの文人である周密が撰述した『癸辛雑識 続集・下』に記された故事のひとつだそうで、「母虎が子を3匹生むと、その中には必ず彪が1匹いて他の2匹を喰らおうとするので、川を渡る際に仔虎と彪の2匹だけにしないよう、子の運び方に腐心する」という喩えから生計のやりくりに苦しむ様を示すのだとか。
3匹のうち1匹、1/3の確率で違う種に変じてしまう・・・生物学的遺伝子のお話し・・・ではないですね。
経済的な比喩でもあるのでしょうが、三人もいれば一人くらいは聞き分けのないヤンチャな、あるいはお転婆な子供がいて、他の二人に影響を与えてしまうことにもなるだろうから、どう対処すべきであるか・・・という育児的解釈も出来る? 子供を部下や生徒に置換することも可能でしょうか。ワタシは「渡し」をそう読みます。だいたい、遺伝子異常もやけど、虎の母子家庭が船で渡河するという状況設定が不思議で不自然やろ、それで経済とか言われてもファンタジック過ぎるやろ・・・と譬話にツッコんだって仕方ない。
同じく小堀遠州作となる南禅寺さんこと臨済宗南禅寺派大本山瑞龍山太平興国南禅禅寺のお庭も「獅子の子渡し」で、作者不詳で由来も不明な臨済宗妙心寺派大本山妙心寺境外塔頭大雲山龍安寺の「石庭」も「獅子の子渡し」だとするお説もある。
釈迦如来をご本尊とする臨済宗のお寺さんは「子渡し」がお好き?? それとも遠州さんが・・・??

虎の子渡し」。
まず母と彪で彼岸に渡り、彪をそこに置いて母が単身で此岸に戻る。
次に仔虎を1匹連れて渡河し、今度は彪を連れて戻る。
それからもう1匹の仔虎と共に彼岸に渡り、その帰りは母独り。
そして最後にもう一度母と彪で渡河してお終い。めでたし、めでたし・・・?
だいたいがそんな自転車操業的なことでは長続きしないのではないか。4人で渡れるよう大きな船を用意する。事前に十分な下準備、資金繰りをしておくのが肝要だとワタシは思う。
十分な計画をもって臨めば弱点も克服出来る、成り行き任せの行き当たりばったりでは大きな損失を招くってことなのね、多分。
・・・って、きょうは難しいことを考えるために来たのではなかった。

このお庭こそかつてデヴィッド・ボウイ(David Bowie・1947年01月08日 - 2016年01月10日)が宝焼酎「純」のCM撮影のために訪れた場所。Crystal Japanですな。
日本通、京都好きなデヴィッドの方からここを指定したのだという。
その際の彼の足跡は写真家・鋤田正義さんによってフォト・ストーリーとなり、鋤田さんのドキュメンタリー映画『SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬』でも紹介されて、『BOWIE×KYOTO×SUKITA』として展覧会も開催されて(→記事参照)、写真集も発行された。

2年前に社会の流れが変わってしまったのに合わせて、人混みを避けて禅寺のお庭に遊ぶことが多くなったワタシ。デヴィッドが自ら指定しその景観に涙したという、比叡山を借景とし白砂に七・五・三の刈り込みだけを置いたお庭を一度は拝見したいと思いつつ、龍安寺石庭」の”謎”を解くのに躍起になって、「石庭」は去年一年に3回も訪ねながら、北の外れまではついぞ来れなかった。
時期も頃合い。ロンドン生まれのカリスマ・ロッカーが訪れた時と同じ季節になって、じっとしていられなくなって・・・。

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いかにも古刹というような雰囲気の参道を辿り、伏見城本丸御殿のひとつを移築したと伝わる入母屋造りの本堂(方丈)に向かい、受付となっている小さな木戸を潜るとそのまま方丈の広縁。
伏見城落城の際に自刃した鳥居元忠らの血痕が残るとされる廊下の板が「血天井」となり、左手には「獅子の子渡しの庭」、その向こうには白壁で仕切られた借景。遥かに比叡山が見える。
デヴィッドは何を観て涙したのか?
彼がこの地を訪れたのは1980年03月29日のこと。今日と同じようなやや曇りがちな天候、気温だったようで、ロンドンっ子の彼にはちょうどよかったことでしょう。
サツキはようやく花芽が芽吹いた頃。今日と同じように、濃い緑色の葉の上に黒みを帯びた深い紅色の斑となっていたはず。
もしや、お花が観たかったのかしら?
砂紋(箒目)の鮮やかさ、刈り込みの見事さに打たれたのでしょうか?
前夜の宿泊先でパートナーと諍いでもあったのかしら??
それとも、京都へ来てまで仕事をしないといけない我が身を嘆いたのか?
この前後に東京で撮影された「Crystal Japan」のPVを観ても、彼の中の日本は静謐。忙しいスケジュールから暫し離れての気散じ、京都でもっとゆっくりのんびりしていたかったのかもしれません。
日本人スタッフやご対応されたお寺やホテルの方々、京都の人たちの心遣いに胸を打たれた・・・のかも??

独りで広縁に端座して(具にもつかない)物思いに耽っていたら脚が痺れました。そろそろ次に向かいます。

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坂道を下って上って、日蓮宗寂光山常照寺
本阿弥光悦が徳川家康より拝領した光悦村の一部に本阿弥光嵯が身延山久遠寺で修行された日乾上人を招いて建立した法華の鎮所が始まり。日乾さんによって鷹峰檀林が開かれ、かつては大小三十余棟の堂宇が立ち並び、200余人の学僧が学んでいたという。いっ時そこは芸術の都で、仏弟子の学寮でもあったのでしょう。
そして今は吉野太夫ゆかりの寺として知られる。

京都の花街に吉野と呼ばれた太夫は総勢十名いたのだという。そのほとんどがプロフィールすら知られておらず、今にエピソードが伝わるのは、寛永の頃、六条三筋町の廓に在って、天下の名妓として一世を風靡し、才色兼備を以ってその名は遠く明国まで知られた、1606(慶長11)年04月10日生まれの二代目吉野太夫こと本名松田徳子さん。元は武家の生まれだという。
7歳で林与次兵衛家に入り、林弥の名を頂いて禿になり、14歳で太夫に昇進。
容姿の優れることは類い稀、18歳にして着飾った十数名の太夫連の中に寝坊して寝起きのしどけない形(なり)で入っても際立って美しかった・・・のだとか。
ルックスだけでなく、和歌、連歌、俳諧に優れ、琴、琵琶、笙が巧みで、さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めた・・・のだとか。
才貌両全、佳人であり才媛であった吉野さんは時の内裏から正五位を授かり宮中へのお出入りも許されたとか。
近衛信尋灰屋紹益が身請けを巡って対立し、吉野さんは関白夫人より豪商の妻となる道を選び、半ば駆け落ち同然に退廓したのが26歳の時。
太夫であった頃から日乾上人に帰依し、初代吉野太夫光悦と親交があったそうで、二代目としてそれを継承したのか、のちに夫となる紹益光悦の甥、光益を実父とするからか、お二人の仲介となったのも光悦で、色々に光悦村の常照寺とご縁があり、事あるごとに訪れてもいたのでしょう、23歳の時には「吉野門」として今に残る朱門を寄贈しておられる。後述するヴィデオからの受け売りですけど。
思うに、関白近衛家の菩提寺は臨済宗大徳寺でお宗旨も違うから、信心からも商家の妻となった・・・のか? よほどに強い信仰心がそうさせたのでしょう。

ここには36歳で生涯を終えた二代目吉野太夫のお墓があって、毎年4月の第2日曜日には太夫を偲んで「吉野太夫追善花供養」が執り行われる。
艶やかな島原太夫やお可愛らしい禿さん、前には曳舟、後には傘持ちが連なる「道中」が見もので、太夫による「奉納舞」や「野点」、追善の奉茶供養が営まれ、今年の開催は来週10日の予定でしたが・・・。何れにせよ、そうした賑わいの中には入れない。で、ひと足お先、今週の訪い。
先々週に島原大門を潜ってかつて賑わった花街の遺構を拝見し、先週はお能の「吉野天人」を鑑賞して、島原吉野天人から美女・・・で吉野太夫に至ったわけで。まァ、デヴィッドゆかりの正伝寺さんからも近いですし、折りもおりがそこここで咲き始め。
吉野天人」の中で京の風流人達は奈良県吉野まで遠出していましたが、もっとやんごとない方々は都から出ることも叶わず、それがために京都中にが多く植えられることになったのだから、ワタシも奈良まで遠足することはあらしまへん・・・?!

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受付を通ると、今日はこれから法要が営まれるようで、邪魔になるだろうからそちらは避けてすぐにでもお庭に出たいと思ったのですが、かましまへんと本堂に案内される。
須弥壇に向かって椅子が幾つも用意される中、ワタシはそれに背を向けて大きなモニターでヴィデオ鑑賞。常照寺縁起から吉野太夫についてのレクチャー、「花供養」の様子などなど。
それを観終えて、本堂を出て、吉野さんゆかりのものを探すのですが・・・、

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お墓へ向かう途中にあるのが遺芳庵
小さな茶席で、在りし日の吉野さんがここでお茶を点てておられたのか、お題目を唱えていたのか、当時の様子は知れないけれど、彼女が好んだとされる大きく丸い窓があって、今ではそれは彼女に因んで「吉野窓」と呼ばれる。
吉野窓」、外から見ると真円で、内側から見ると下の方が幾分か水平に切られた形。円(丸)は悟りの状態、仏を表すとされて、まだそこには届かないからと下が欠けているのだとか。さっき観たヴィデオからの受け売り。いかにも日本的な遠慮や謙譲の表現ですかね。
二代目吉野こと徳子さんのお墓も遺芳庵も京都市内に2つずつあるのだとか。
お墓は灰屋紹益の菩提寺である日蓮宗具足山立本寺にもあって、もうひとつの茶席は臨済宗建仁寺派霊鷲山高台寺に建てられる。
2基のお墓は、片や島原二代目吉野太夫の、かたや紹益の妻、徳子の墓ということになるのでしょう。
高台寺遺芳庵徳子さん亡き後、紹益さんが懐かしむために建てたという。まァ、常照寺は遠いし、途中は坂道だし、ちょっと辺鄙だし。

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常照寺
境内でもがちらほら。こちらには数種類の品種が植えられているのですが、今咲いているのはソメイヨシノベニシダレザクラでしょうか。「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」、ちょうど「花供養」の頃が見ごろになるようで。

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裏手の小さな門を抜けて谷へと降りる。
途中に「花扇」と銘を付けられたがあって、その向こうを見下ろすと白馬池と名付けられた小さな池。その傍らに立つのは白馬観音像
昔この辺りには霊池があり仙人が住んでいたという。白い馬に乗って池を往来していた仙人がやがて観音となって昇天したのちに池は枯れてしまったのか埋められたのか、この小さな池と観音像は2009年に造られたもの。シン白馬池ですな。
裏門横に龍神さまをお祀りする妙法龍神社が設られていたので、白馬は(多分、もしかして)龍の化身だったのでしょう。龍を操る仙人。古くから鷹峰の谷間には大きな溜池があって、治水に携わる人がおられたのでしょうか。龍は水脈の化現、権化で、水脈のあるところに龍神社が置かれているから、この小さな祠もそのひとつだったのでしょう。平安遷都以前には龍穴があったのかも知れません。
周りは杉林で、池の復元と一緒にが植えられたのでしょう。「都をば花なき里となしにけり 吉野を死出の山にうつして」、花ざかりならまだしも、天人が舞い降りるにはちょっと寂しいようなロケーション。吉野さんが不意に現れちゃっても怖いし・・・。
そろそろ都へ戻りましょう。

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の見頃はもう少し先で、天人には出逢えなかったが、深山幽谷に遊んだ気分にもなり、ちょっとした冒険も楽しめました。坂道ばっかで細長い御御足も疲れてきたような。
真っ直ぐに帰宅してもいいのですが、都のも観ておきましょうか。
西加茂鷹峯から上賀茂賀茂別雷神社へ。こちらはほぼ毎年拝見している「斎王桜」に「御所桜」、「風流桜」、「みあれ桜」などなど、それぞれに銘を与えられたサクラ。余所のサクラを褒めたりしたら義理を欠いてしまいそう。
斎王」と他のソメイヨシノ系が満開で、「御所」や「風流」、「みあれ」のベニシダレザクラはまだ蕾。それでも有名どころとあって随分な賑わいで参拝もままならないほど。写真だけ撮って早々に退散。
鴨川沿いの「半木(なからぎ)の道」のヤエベニシダレザクラもまだこれからといったところではあるものの、ソメイヨシノと花見客で河川敷も大層な賑わい。
糺の森」を抜けて帰ります。

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