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まさに堪能!? [散歩・散走]

さて、きょうもお能の鑑賞会。
一昨年に予定されていながら諸般の事情により度々延期となっていた「第14回 日本能楽会 京都公演 国家指定芸能[能楽]特別鑑賞会」の開催が漸くきょうのこと。雨が降りそうな気配の中、平安神宮にほど近い京都観世会館を訪ねます。


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上のフライヤー画像にある通り、日本能楽会の主催とあって、観世流金剛流、二つの流儀のお能が三番に狂言と仕舞、舞囃子も添えられて、ゴージャス、デラックスな番組となる鑑賞会。
お能三番は何れも小書が付いて、観世流能田村(たむら)」は替装束観世流能吉野天人(よしのてんにん)」は天人揃(てんにんそろえ)、金剛流能石橋(しゃっきょう)」は狻猊之式(さんげいのしき)。豪華なヴァリエーションをラインナップする。
まるっと二年も延期になって、発酵しそうなほど熟成もしているでしょうから、見ないわけにはいきますまい。

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・・・とその前に、花散らしの雨が降り出す前にと、少し早めに散歩を兼ねて、南禅寺さんから”ねじりまんぽ(蹴上トンネル)”を抜けて蹴上インクラインを辿り、平安神宮辺りをぶらぶらと。
まァ、サクラの花を探したのですが、それというのも本日の演し物と関係があって、今回は「田村」と「吉野天人」が上能されるというので一面満開(!?)のサクラを求めて。
それが少々早かったようで、花散らしどころか、咲きは僅かにチラホラと・・・。それでも、まァ、春らしい華やかな気分にはなれたでしょう。
京都観世会館に向かいます。

きょうの鑑賞会は、10:00開場、11:00開演で終演予定が17:00。途中に2回の休憩があって、演目が盛り沢山なだけあって長丁場。ランチどころではありません。
事前予約とはいえ全席自由、いいお席を確保しようと開場前に会館へ。閉ざされたエントランスまで辿り着いたところで雨も降り出して、ちょうど雨宿りするような格好で。

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開場となって見所に進み、正面最前列、目付け柱と階の間、白洲に足が届きそうな席を占める。
舞台に近過ぎるような気もするのですが、かぶりつきから、今日は「運ビ」・・・摺足をじっくり拝見(研究?)したいのと、囃子方のコンビネーションを間近でつらつら聴き分けようという魂胆で、面(おもて)や装束もよく見てみたいということもあって。
2階席まであるホールの中、型通りの舞台が設られていて、ちょっと眼を惹くのが鏡板。
こちらの鏡板に描かれた「老松」は京都生まれの近代日本画家、堂本印象さんの筆になるもの。昭和33年にこの会館が作られて以来60余年、金と緑青で描かれた松は「老松」というには青々と、切戸口横に描かれた若竹ともども今もってモダンに映る出来映え。

開演に向けての場内アナウンスに最初の「お調べ」が重なって、先ずは観世流能田村 替装束」から。
作者不詳で、二番目物修羅物の多くが『平家物語』に取材した負修羅である中、『今昔物語』と『清水寺縁起』を題材とした勝修羅物。後シテとして登場する武将も平家ご一門の方ではなく、清水寺の創建に関わった田村丸こと坂上田村麻呂
征夷大将軍に任じられた田村さんが蝦夷征討でのご活躍、伊勢國・鈴鹿山で盗賊を退けたとか鬼を退治したとか、行く先々で勝利したとして勝修羅なのね。
何れにせよ争いごとはよろしくないが、死後は守護神として立ったまま埋葬(!?)されたという田村さんが観音様の御利益を以て今も京都を守護するとされるから、パンデミックからも守って頂こうとして上能されたのかしらとも思ってしまう。
東国の僧(ワキとワキツレ)が上京した際、音羽山清水寺を訪れてみると、清水寺創建時の故事来歴を事細かに語る童子(前シテ)と出逢う。彼こそ実は・・・とよくあるパターン?
時は春、弥生三月。舞台は清水寺鎮守社地主権現社で桜の花弁を掃き集める童子。
ワタシもここを訪ねる前にきよみずさんにお参りして、そこに咲く桜を愛でてから・・・とも思いつつ、雨催いに音羽山を登るのは大義で、清水寺からここまではちょっと遠い。あちらはまだ咲き始めにも至っていないが、この作品が作られた頃から桜の名所ではあったのでしょう。
ヴァリエーションといっても、変奏ではなく変装(?)。「替装束」ということで、使われている面(おもて)は前シテが「喝食(かっしき)」、後シテが「平太」でしょうか。装束も、前段の童子はより神秘性を含み、後段の武将はまァ、見るからに強そうでこれなら鬼さえ倒しパンデミックも薙ぎ払いそう?!
流儀による差異もあって、見識の狭いワタシにはよく分かりませんが、小書が付けば装束に合わせて所作も変わってくるのだとか。修羅というにはあまりに厳粛で、霊験まで感じられるような・・・。

おッと、この調子で書いているとかなりの大部となりそう?! ちゃっちゃといきます。

続いては、金剛流仕舞で「東北 クセ」と「殺生石」。
先月、金剛能楽堂で拝見した「東北(とうぼく)」から「クセ」のパートを抜粋で。
先頃何故か割れちゃったと話題になった殺生石は元を正せば宮中にあって鳥羽上皇のご寵愛を受けた伝説の女性、玉藻前でその正体は九尾の狐。京都から下野國那須野原まで逃げ延びた果てに討たれて石に姿を変えた。それがこの度割れちゃった・・・????
謡曲の中では、二度と悪さは致しませんと反省の色を示しているのですが・・・。
囃子を伴わず、装束も着けない略式の仕舞は、絵画などで言えば習作、スタディに当たるのでしょうか。色彩を載せず構図がしっかりと決まった素描画、下図(下絵)のよう。
囃子や装束に頼らず、型や所作を作品として披露する、昔のフィギュア・スケートの規定演技といったところでしょうか。

続く狂言は先達ても拝見した「察化(さっか)」。金剛能楽堂で観たそちらで詐欺師の察化を演じられた茂山七五三さんが今回は太郎冠者
同じ演目でもお役が変われば”ノリ”も変わるようで、飄々とした太郎冠者とそれに振り回される察化の可笑しみ。苦しいくらいに笑わせて頂きました。

観世流仕舞は「笠之段」と「駒之段」。
没落から離縁した夫婦が巡り合って再び結ばれる「芦刈(あしかり)」から笠売りとなった日下左衛門の舞と美貌の故に”驕れるお方”から疎まれてのお局さま失踪事件(?)な「小督(こごう)」より源仲国が別れの酒宴で舞うシーン。
どちらも古典文学を題材として、ひとつは歓喜の舞で、もうひとつは惜別の舞。和歌や物語をどう体現するか、装束やお囃子は排した謡と舞だけの表現。

ちょっとお尻も疲れてきた頃合い、ここで20分の休憩。面白くて時間を忘れていましたが、時刻はもう13:30を回っている。お昼抜き? そう思って非常食(!?)をバッグに忍ばせてます。

仕切り直しは、観世流能吉野天人 天人揃」。
舞台の正先辺りに作り物のサクラが置かれて、お囃子が鳴ったらホール内は花盛りの吉野山へと様変わり。
毎年千本の桜を楽しんでいるという風流な都人(ワキ)が仲間と語らって吉野を訪ねてみると一人の美女(前シテ)が話し掛けて来て、桜の美しさに惹かれるあまり家路を忘れ花を友として暮らしているという彼女の正体こそ・・・。
夜まで待てば天人の舞を見せてあげる♡・・・ってどんだけ意気投合しちゃったのか。
今回演じられるのは「天人揃」で、ソロではなく、豪華な群舞。桜の園での合コンかしら?
後シテの天人に従うのは、同じ面(おもて)で同じ天冠、長絹、装束を揃えた天人五人組。シテをプリンシパルとするコール・ド・バレエ? ラインダンス?
瓜二つ(瓜6つ?)だから姉妹にも観えるが、「友人(ともびと)を伴って」と語られるから、天人シスターズではなく天人フレンズで、フィジカル・ディスタンスもお構い無しなのは天女さんだからなのね。それでも六人も舞台に載れないので、半分は橋掛りに留まって。ずらりと居並んで、艶かしくも艶やかに、大きな袖を翻し、桜に負けず華美なること。
迦陵頻伽の化身なのでしょうか。見目麗しい天人に出逢えるなら、ワタシも来週あたり吉野までお花見に繰り出そうかしら。

金剛流舞囃子巻絹」。
こちらは冬の熊野が舞台で、梅と和歌がテーマ。都から熊野本宮へ献上品(巻絹)のデリバリーを命ぜられたお使者が音無天神に咲く梅の香りに魅せられて、和歌を詠みそれを天神さまに納めるうちに御用向きに遅れてしまい、勅命に叛いたとして縄を打たれることとなって・・・。
天神さまが憑依した巫女(シテ)のクセから神楽、狂舞が見どころなのですが、舞囃子では面も装束も着けず、ヴィジュアルに頼らない謡と所作、舞の技量が試されるところなのでしょう。
巻絹」に登場する巫女は一種のトランス状態なのでしょう。四番目物では狂女が多く扱われて、嫉妬なり物狂いしちゃった女性は何かに憑かれたように舞い踊っちゃうものなのでしょうか?? ヒステリックになっちゃって、落ち着けない、じっとしていられずにじたばたしちゃう。その状態から逃れようと踠く様なのでしょうね、多分。心の均衡が保てずに不安定で、バランスを取り戻そうとするのでしょうか。

観世流仕舞網之段」と「鵜之段
貧しい母子家庭の暮らしから自ら身を売った桜子。その身を案じ日向國から常陸國まで彷徨い歩いた挙句精神に支障をきたしたの狂乱の舞が「櫻川 網之段」。
鵜飼による漁が面白くて、ついつい禁猟区で漁労しちゃって、その罪により川に沈められた老漁師の末路が「鵜飼 鵜之段」。
子を失った母は文字通りヒステリカル。ヒステリーの語源は子宮を意味する古代ギリシア語「ὑστερία」で、子供を失ったことから一種の解離性障害となったのでしょう。女性は男性に比べて自我が崩壊しやすい、脆い・・・なんて言ったら女性蔑視だと叱られますね、多分。

時刻は16:00ちょっと前。20分の休憩を挟んで、最後の演目は金剛流能石橋」。
中国が舞台なので、訓読みの「いしばし」ではなく音読みになって「しゃっきょう」。
五番目物切能物で、今回は小書が付いてヴァリエーションの「狻猊之式(さんげいのしき)」。
ご出家されて寂照法師(ワキ)となった大江定基が入唐し、巡礼の末に辿り着いたのが清涼山
深さ3,000メートルの谷に架かる石の橋はヒトが作った物ではなく、天地開闢以来ここにある天の浮橋で、その向こうは文殊菩薩の浄土である・・・らしい。
長さは約9メートルで幅はわずかに30センチメートル。苔むして滑りやすく、容易く渡れるものではない・・・らしい。
無理を圧して文殊の浄土へ渡ろうとする寂照さんを止めるのは樵の少年(前シテ)。余程に修行を積んだものでさえここを通るのは容易ではないという。
さて、どうしたものかと寂照さん・・・というのが前段。
後段は橋に見立てた一畳台が三つ。コの字型に並べられ、それぞれに紅、白、ピンク色の紙製牡丹が飾られて。このボタン、お花のひとつずつがヒトの顔ほどもあって、天香国色な百花の王に相応しい拵え。
寂照さん同様に渡りたいけど渡れずにいる仙人(アイ)が出てきて、改めて石橋が架かる風景、橋の有様を語り、そこは生半可には渡れないことをアピールする。
文殊様は知恵の神様。その域に迫るにはかなりハードルが高くて相当に困難ではあるのでしょう。
四拍子が「乱序」を演じて、それに合わせて文殊菩薩の使者であるお獅子が現れるのですが、「狻猊之式」とあって、白獅子を筆頭に、狻獅子猊獅子、都合三頭のいわゆる「連獅子」。
白獅子に対して、は紅いたてがみで、用いられる面(おもて)は三頭ともにこの演目の専用となる「獅子口」、牙を備えた口を大きく開いて顔半分。厳しい貌つきは金泥が施され、眼も金メッキの銅仕立て。面の派手やかさに負けず、装束も金糸をあしらった豪華で華やかな厚板唐織。ライオンというより、妖怪の総大将のようにも見える。それが三頭。
白獅子は威厳を示して鷹揚に、二頭の紅獅子は若々しくて躍動的。三間四方の舞台から橋掛りを駆け回るかと思うと、一畳台にひらりと飛び乗り、牡丹に戯れ、でんぐり返りまで披露してアクロバティックに縦横無尽。ナントカ大サーカスのホワイトライオンとレッドライオン????
百花の王に戯れる百獣の王。
一説によると、霊獣の獅子にも苦手なものがあって、それは毒虫、いうところの「獅子身中の虫」。その毒虫は牡丹の花に宿る朝露で死んでしまう。あるいは、牡丹の花に溜まった朝露を飲むと解毒される・・・とかなんとか。
「立てば芍薬、座れば牡丹」、よく似た二つの植物はほぼほぼ同じ薬効を持って、血の不足を補う補血薬として痛みや痙攣を和らげ、頭痛や腰痛、婦人病に効能があるのだとか。ライオンさんには牡丹の根っこの皮じゃなく、花に溜まった朝露なのね。獅子さえ元気付ける百薬の長!? またたびや無いんや?!
それもあってか、五番目物切能物として番組のフィナーレを飾り、獅子の勇壮な舞は祝言、万歳千秋、長寿を言祝ぐ祝言能とされる。
修行を積んでもヒトなれば石橋の手前が精一杯。知恵に至る険しい道程と辿り着いた果てに百花の王と百獣の王、百薬の長を以て健康長寿。注射が痛いナントカ・ワクチンより余程有り難いに違いない。

そうそう、まずは手近なところとして「所作」や「運ビ」を見極めようと試みたのですが、それはお役によっても様々で、「摺り足」にしたところで役柄によって異なるようで、お獅子はまるで参考にならないし・・・。
まだまだ浅学にして能楽の本質までは理解が及ばないのだけれど、分からないなりに楽しめちゃうエンターテインメント。
ただ、お囃子の役割りは多少知り得たように感じられて、それはある時には舞台装置の代わりとなって情景を示したり、時によっては登場人物の心情を代弁するようであったり、捉えようによっては時間と空間までコントロールするようで、寺社境内の佇まいや深山幽谷の静寂がそこにあって、ゆったりと時の移ろいだけが気配となって漂うよう。そうかと思うと、「獅子舞」では勇壮で、獅子は語りや謡いがないからそれに変わって吠えるが如く唸るが如く躍動感を盛り立てて。
作音楽器は能管(笛)一本で、明確なメロディーはごく短くて、地謡方は4乃至8人も居てハモるわけでもなくユニゾンで、太鼓を加えても小鼓、大鼓では所謂ハーモニーとも言えず、リズムというほど一定でもない。西洋的観点からするとまるで音楽的ではないのだけれど、伴奏ではなく囃子、様式が洋式とは異なるからで、和音として和合するのではなく重ねる音、平安装束の十二単などに見るような襲ね、音を襲ねてグラデーションから時にコントラスト、音の色彩、色合いの濃淡から陰影、空間密度の高低や広がりを表現しているように感じちゃって、宇宙・・・時間と空間の量子力学を想起しちゃって、いや、きっちりと型と所作、様式が定まっているから「サイコロを振らない」方の古典力学的かしらン。能舞台はミンコフスキー時空?
流儀やお役、今日の演目のように小書が付いたりで、その時々に変化するからやっぱり量子力学的作用なのでしょうか。
物理的力学はともかく、能は幽玄と言われるけれど、四拍子が表す音の広がりが時間や空間の揺らめきを想わせて、それが幽玄と感じられるのでしょう。
あらゆる芸術の要素を含んで楽しめるリベラル・アーツでもあるでしょうか、それらの知識を得るためのエントランスと捉えることも出来て、ワタシ的にはひと頃流行ったコンセプチュアル・アートとして面白がったりもしているわけで、楽しみながら知識が広がればお得かな・・・っと。
アブストラクト・アートにも近いでしょうか。写実ではなく写意、余計な部分を極限まで省いて本質だけを抽出して、フランス的にいうならニュアンスやエスプリの表現となるのでしょう。哲学的?
ハマってしまったら抜け出せないように感じる、芸術沼。深遠であるから面白いのでしょうね。
堪能した演技に堪能させていただきました。

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