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バーンスタイン能を語る(?!)、あるいは「葵上」考察 [散歩・散走]

さて、本日も金剛能楽堂を訪ねての観能なのですが、きょうの番組は「日本全国能楽キャラバン! in 京都① 『マエストロ佐渡裕氏を迎えて』 -バーンスタインが語った能の精神-」と長いタイトルが付いて、そのお題通りに日本全国を巡回する文化庁 総括団体によるアートキャラバン事業の一環で、”能楽の魅力発信、日本に、そして世界に”という趣旨の企画物。
2022年度は全国23都道府県42会場63公演が予定されていて、そのうち能楽と関わりの深い京都では6公演もあって、きょうがそのVolume1。


2021年度版はきょうと同じ会場で1公演だけ拝見しましたが、単にお能の鑑賞会というだけでなく、関わりの深い名所旧跡や故事来歴と絡めて、そこに所縁の方々をゲストに招き、対談なり鼎談がプログラムされて、その後上能される曲の成り立ちを知ろうというもの。
で、2022年度Volume1でも対談と上能のプログラム。

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・・・なのですが、ゲストとして能舞台にご登壇されるのは指揮者の佐渡裕さんで、対談のテーマが「バーンスタインが語った能の精神」ですって!!
バーンスタインとはもちろん、Lenny(レニー)ことLeonard Bernstein(レナード・バーンスタイン 1918年08月25日 - 1990年10月14日)で、彼が生前にお能について日本人指揮者に諭した事柄がそれを受けた彼の愛弟子の口から語られる・・・ようで。
佐渡さんとレニー・バーンスタイン、師弟マエストロとお能の関係は・・・?

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開場が12:00、開演が13:00。お昼どきに掛かるのですが、今回は全席指定となっているので慌てることもなく、近くのホテルでゆっくりと昼食を済ませ、与えられた正面席に着いたのが開演の10分前。
すでに舞台の上にはスツールの代わりとなる鬘桶が3つ並べられている。
開演に先立って前説をされるのは金剛流シテ方豊嶋晃嗣さん。
彼の紹介を受け、入れ替わりに切戸口から本舞台にお出ましになられるのは、指揮者で兵庫県立芸術文化センター芸術監督、シエナ・ウインド・オーケストラとウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団首席指揮者でもある佐渡裕さんと能楽金剛流二十六世宗家で公益財団法人金剛能楽堂財団理事長、一般社団法人日本能楽会会長、一般社団法人金剛能楽会代表理事、京都市立芸術大学客員教授を務められる金剛永謹さん、コーディネーターとして元NHK京都放送局長で古典の日推進委員会アドバイザーでもある山本壯太さんが加わってトリオ編成、鼎談のような対談。
佐渡さんはお能にゆかりはさほど無いとのことですが、京都生まれの京都育ちで、京都市立堀川高等学校音楽課程から京都市立芸術大学音楽学部フルート科へと進学、ご卒業後はフルート奏者とはならず指揮者の道を歩まれて、縁あってタングルウッド音楽祭オーディションへの参加許可を得て、そこで開催されていたレニー・バーンスタインのワークショップに参加し、ウクライナ系ユダヤ人移民の二世にして、アメリカ生まれでほぼほぼ最初の世界的指揮者・作曲家の遺志を受け継ぐことになっちゃったというお方(ざっくり!!)。
一方、金剛流ご宗家の方は能の家に生まれながらクラシック音楽もお好きだそうで、お若い頃はイタリア・オペラに惹かれ、大阪フェスティバルホールでのバイロイト・ワーグナー・フェスティバルを生でご覧になられたとかでそれ以降はヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトを好んでおられるとのこと。

トークの本筋はタイトル通りにレニー・バーンスタイン佐渡さんに語ったお能の精神(?)・・・なのですが、そこに至るには、なぜフルート科から指揮者に転じたか、ワークショップで接した気さくなレニーのひととなりなどなど小ネタ的エピソードがふんだんにあって、ええ、バーンスタインから薫陶を受けた日本人は「大阪クラシック」プロデューサーも務められてエイリアン・トークでお馴染み(?)のあのお方ともどもクチが達者でなかなかに饒舌。対談といいながら、ほぼほぼ佐渡裕トーク・ショー的な(笑)。元NHK局長が話しの流れを作って、ご宗家が相槌を打つような格好で。

マエストロレニーの仰言るには、グスタフ・マーラー作曲「交響曲第5番 嬰ハ短調」の「第4楽章 アダージェット へ長調」はお能に通じるのだとか。
他に日本人のいないワークショップで所在無さげにしておられた佐渡さんにレニーの方から「君は能を知っているか?」と(もちろん英語で)話しかけられたのだとか。
イタリア語の「アダージョ(adagio)」はラテン語の「agio」を語源とし、平安、安らぎ、ゆとり、くつろぎ、気楽、気心を意味し、前置詞「ad」が添えられて「adagio」、音楽用語に転じて和訳すれば「ゆっくりと」となって、「アダージェット(Adagietto)」は「非常にゆっくりと」。
それをマエストロは若き佐渡さんに身を以て示されたのだとか。
そういえば、この「アダージェット」はストリングス・セクションとグランド・ハープだけで演じられて、管楽器や打楽器などなどはまるっとお休み。寛いでる? んン、そういうことやない?!

ワタクシが解釈するに、速い・遅いという速度的なことを表すのではなく、緩急の緩い、緩やかで滑らかな様を表すのでしょう。音楽で用いられる「緩徐」は「遅い」ではなく「ゆっくり」。ゆったりとした寛ぎ。時間的なことではなく、空間まで含めた時空間を考慮するのでしょう。
「寛ぎ」の「寛」一文字でひろびろとしてゆとりがある、きびしくない様、くつろぐ、ゆるすを意味する。
佐渡さんも英語が苦手でタングルウッドではご苦労されたそうですが、速度、スピード(speed)を言うのではなく、「間合い」を指すのでしょう。それがintarvalになるのか、timeと考えるか、spaceと捉えるか。多分、time and space、相対論的な時空間を示す言葉なのでしょう。
音楽的にはテンポ(tempo)ではなくビート(beat)ということなのだと思います。速度ばかり気にしていると間伸びしてしまう。その間合いをどう活かすのかということなのでしょう。
雅楽や能楽でいう「序破急」も、現在では音楽的なテンポのことを示しているように解釈されていますが、武道や茶道にも通じる「間合い」のことをいうのでしょう。邦楽では音符は用いられず、一拍の中にどれだけの音数が鳴るか、間隔、密度が「間合い」を決めるのだと理解します。
そういえば、お能の足踏みで使われる「七拍子」も等間隔ではなく、♩♩♪♪♪♪♩(タンタンタタタタタン)だったりします。
能楽にもアップテンポな楽曲もあれば緊張感の高い演目もあるのだけれど、本質は「ゆとり」、「悠り」あるいは「裕り」。ゆったりと余裕があってせせこましくない。「寛けし」、「豊けし」。
語りや謡い、(脚の)運び、お囃子方の音数の多寡によって時間感覚も変われば、空間密度も変化するように感じられます。
ワタシは能舞台を拝見する度に、その場の時間の流れが変化したり、重力までが違ってきたりするように思えて、相対論的空間、「ミンコフスキー空間(ミンコフスキー時空)」だと独り面白がっているのですが、捉え方を間違ってますかねェ。

語り尽くせぬ表情のマエストロと聴き足りなさ気なご宗家ですが、こちらの時間は限りがあります。
この後は休憩を挟んで、ご宗家がシテ(六条御息所の怨霊)を努める金剛流能蝋燭能 葵上 無明之祈」が上能される・・・予定なのですが・・・、

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配役は上画像の通り・・・ではなく、ご宗家が演じる予定のシテを金剛龍謹さんがピンチヒッターとして演じられる。
対談開始直後のご挨拶でご宗家の口から明かされたところによると、3日ほど前に急な発熱があって体調が万全では無いとのこと。昨今流行りのウイルスによるものではなく、お熱も下がったとして、今日は対談だけを演じ、この後のシテ役はご子息、若宗家に委ねるとのこと。

休憩の間に舞台上の鬘桶は片付けられて、変わって舞台前から橋掛かりに沿って並べられた燭台に火が入り、今回の上能はいわゆる蝋燭能。室内に設けられた能舞台では消防法等の関係から薪能というわけにはいかず、変わって和蝋燭を用いることになったのでしょうが、平安期の左大臣邸が物語りの舞台となるこの演目には相応しいでしょう。蝋燭の小さな炎が微かに揺れて、一層幽玄に映えるかと。
ここでも豊嶋晃嗣さんによる前説が入って「葵上」のあらすじ、今日用いられる面(おもて)は何れも三百年前の古面であることなどが語られていると揚幕の向こうから「お調べ」が聴こえて、それが止むと僅かに残された舞台上の照明と九本の和蝋燭の灯火が揺らぐ中、揚幕から橋掛かりを囃子方、切戸口からは後見と地謡方、各々が決められた位置に端座されて、つづいて橋掛かりを静々と登場するのは照日の巫女(ツレ)。
舞台の正先に葵の上に見立てた小袖が伸べられれば、能舞台が千年前の三条辺りに在ったとされる左大臣邸の一室に様変わり。
次に登場する朝臣(ワキツレ)が場の状況を語れば、舞台だけでなく見所まで含めたホール内がまるっと1000年前にタイムリープしちゃったか、Star Trekに出てくるホロデッキの要領。葵の上の寝所で起こる怪異を覗き見しているような錯覚。

葵上」は『源氏物語・葵の巻』に取材した、四番目物・雑能、執念物、祈物。世阿弥の作であるとも、世阿弥による改作とも伝わる人気の演目。タイトルこそ光源氏の正妻、葵の上から頂いているのですが、病床にあるそのお姿は舞台正面手前に置かれた小袖・・・「出小袖」が代役し、光の君も登場せず、シテが演じるのは車争いの末に葵の上を病いへと追い込んだ(?)六条御息所の怨霊
シテ方五流の何れもがレパートリーとする作品ですが、小書に「無明之祈」と付けば金剛流のオリジナル。大筋は同じでも、演出や型が異なる。
他の流儀では前シテ(生霊)から後シテ(鬼女)への変身は中入り無しに後座で後ろ向きでされるのですが、金剛流無明之祈」では鏡の間に下がって面(おもて)だけでなく装束も改める。
さらに・・・。

ワタシが能楽堂を訪ね観能を続けるキッカケとなったのがこの金剛流葵上」だと言えるでしょうか。
講演付きの能面展覧会に通ってみたり、ワークショップや解説付きの公演で他の曲を観てきたのはこの作品をよく理解するための下準備。

というのも、西洋絵画にちょっと飽きちゃって近代日本画を観る中でいわゆる美人画、それも上村松園さんのお作に惹かれ、縁あって彼女の回顧展に2度も脚を運び、たまたまその前後に近代美人画ばかり集めたエキシビションがあったり、その下図(下絵)や縮図を拝見するためにわざわざ奈良県の松柏美術館まで脚を運んでみたりもしました。
松園さんは画学校に通う傍ら先々代のご宗家から金剛流謡曲を学んでおられて、謡曲を題材とする作品も幾つかあって、「(ほのお)」と名付けられるのはまさに「葵上」をテーマに六条御息所(の生霊)をモデルとしたお作。
源氏物語』には女性が大勢登場するのに何故彼女を選ばれたのかと思ったら、原作の方ではなく謡曲から写した由。しかも、その面差しは嫉妬に狂うという風には見えず、とても哀しげで切なげで、どうしてそうしたお貌に描いたのか、それを知りたくて。

原作となる『源氏物語』は現代語訳とはいえ幾度となく読んではいて、数多登場する女性の中で一番惹かれるのが六条御息所
何しろ、前坊妃で女性陣の中では位階も一番上位だったのでしょうが、気位も気品もお高くて、その分聡明で知性も教養も飛び抜けて、お詠みになる和歌も優れてお書きになる文章も達者、恐らく美貌もトップクラス。詳しく明かされていませんが、多分お家柄もおよろしくて、生まれついての文雅なレディ。実際にお付き合いするとなると(とても)タイヘンでしょうが、多分一番面白い(と言っては失礼ですか)、スキャンダラスで興味深い女性。
そんなレディ六条がなぜ浅ましい醜態を晒すことになってしまったのか。
原作では、光る君との出逢いや馴れ初めも触れられていませんが、生霊(いきすだま)になってしまう経緯も少々曖昧で、子持ちの未亡人となったのちの我身の零落、光る君が疎遠になったことか、彼の周りに在る女たちへのジェラシー故か、何れにせよ葵の上が苦しむことになったからには彼女に対する羨慕が大きかったのでしょう。
他の女性たちと葵の上の違いは・・・?

というわけで、紫式部が著した長編小説と上村松園が描く美人画を結ぶミッシング・リンクでもある金剛流能葵上」。それを観ないわけにはまいりません。

病いの原因、その正体を探るべく、朱雀院に仕える朝臣に命じられた照日の巫女が梓の法を用いて葵の上に取り憑いている物の怪を召喚してみると、それに応えて現れるのが六条御息所の怨霊
揚幕から橋掛かりをすゥ〜ッと歩んで来られる・・・のですが・・・、

原作では葵の上の病いを癒そうと、医師や薬師の治療では埒が明かず、比叡山の僧が祈祷することになっている。そして、その甲斐もなく・・・。
お能の方は、照日の巫女横川の小聖がそれに代わって怨霊と対峙する。
・・・のはいいけれど・・・、
泥眼」という面(おもて)を着けて、唐織をお召しになったレディ・・・のゴーストは衆人環視の中に在っても、見えているのはシックス・センスの優れた巫女さんと小聖だけで、すぐそばにいる朝臣にも見えない・・・という設定になっている。
他のお役同様に橋掛かりから摺り足で舞台へと進まれるのですが、実は見窄らしい破れ車に乗っている・・・体(てい)でもあるらしい。
誰も彼もが霊能者みたく死んだ人や亡霊が見えたら大騒ぎですが、見えへんかったらお話しが進まへん。
怨霊なのだから神出鬼没でもいいものを、貴婦人が徒立ちというわけにもいかず、レディの御御足ではいくら生霊とはいえ、六条京極から三条までは遠いのでしょう、多分。今更に事故車を見せつけて難癖をつけようというおつもりかしら。
見えない車も重要で、法華経にある三つの車でなら往生も叶うであろうが破れ車では輪廻も敵わぬ、と怨霊は嘆く。
怨霊ではあるのだけれど、元は折り紙付きのレディだからでしょうか、仏に帰依しておられたのでしょう、恨み言の前に、愛執の果てに成仏出来ぬ我が身を嘆いて出端から泣いておられる。
レディ六条擁護派(?)のワタシは以前に「葵上」を拝見した時はまだ理解が浅くもあって、医師や祈祷師でも治せないその病因を六条さんのせいにしちゃえと見えない生霊巫女さんと小聖がでっちあげてる、冤罪じゃないかとまで考えていたのですが、観るにつけ、六条さん(の生霊)の哀傷を白日の下に晒しその痛みを知ってあげよう、除いてあげようとするある種レクイエム的な曲なのではと思えてきて。
しかも・・・。

対談の最後に「葵上」の見どころを尋ねられたご宗家は、泣きの型、心の機微を現す所作にご注目くださいと応答されて、いかにも御息所の怨霊は終始泣いておられるようで。
室町言葉で綴られた詞章は難しくはあるのだけれど、語りや謡いをよォく聴いていると所作や型、その意味合い、お心柄が見えてくる。
往生出来ぬ恥ずかしさ、それを語るには梓弓が打ち出す末筈のチカラを借りなければいけない。彼女の姿が見えて、彼女の声を聞ける霊能者を用意する必要がある。
室町言葉は半ば意味不明(?)なのですが、筋立て、設定がキッチリ出来ているのですね。
空間演出もよく考えられていて、三間四方の本舞台が左大臣邸(のご寝所)で、橋掛かりは六条から三条への往還であったり、左大臣家の男(アイ)が横川の小聖(ワキ)を呼びに行く道中であったり、最後は鬼女(後シテ)が小聖の調伏に依って成仏して往く悟りの途。金剛流では鏡の間は舞台から見て西にあって西方浄土ともなっている。

原作とは乖離してはいるものの、簡潔で分かりやすくまとまって、よく出来たストーリーになっていると思います。語りの中に『源氏物語』の巻名が逐一織り込まれそれと解るようにもなっていたりもします。
ですが何故、六条御息所(の怨霊)をシテとしながら外題は「葵上」なのか。
思うに、二人のレディはキャラクターこそ違えどお立場は近しいところにあって、場合によってはお二方のポジションが入れ替わる可能性もあったわけで・・・。
レディ六条の父母は知れませんが、レディは桐壺帝時代の左大臣を父に、一院の女三の宮(第三皇女)で桐壺帝とは同腹の妹の大宮を母に持つ。面識はなくても、二人は生まれた時からライバル関係。ともに光の君より年上で、どちらも皇太子妃候補であったものをパパ左大臣はその美しさに眼が眩んだのか、桐壺帝のご寵愛を受ける光の君が皇太子になると早合点しちゃったのか、我が娘を光の君に差し出しちゃって、ライバル六条さんが皇太子妃。
この時代の女性の栄達は、高貴なお方のお種を頂き若子を成すこと。ともに良家のご息女は美しく育つにつれ、後宮入りを望まれ、高貴なお方の元へ嫁すことが運命づけられていたはずで、そのための美貌、そのための教養、知性。
さんは物心ついた頃から、きっと皇太子妃となって、いずれは帝妃ともなり、国母となるものと信じて育ったはずが・・・。
六条さんは東宮妃とはなったものの、早くに先立たれ、一女はもうけたが若子は成さず、いっそ髪を下ろそうとするのをまだお若いからと帝に止められちゃって・・・。
もしかしたら、出逢いは明かされていませんが、東宮妃となるよりも光の君を子を成したいとお考えになっておられたのでしょう。六条さんがご存命の折りに光の君の子を宿したのは葵の上おひとりで、生霊となってまで病床の葵の上を後妻打ち(うわなりうち)。なまじ似たもの同士のライバル関係で因縁の深さも半端ないのでしょう。一層に嫉妬が募るのでしょう。
ともにトップ・レディとなることを運命づけられていいながらそれが果たせず、光る君に翻弄されることとなって・・・。二人共に生まれ持ったプライドがその華奢なお身体には重過ぎたのでしょう。一方はストレスから病いを得て、もう一方はジェラシーから鬼と化してしまう。
お二方とも光る君より年嵩で、帝の御子でありながら大納言の娘、更衣の腹から出た彼をちょっと下に見ている節があって、それでどちらもツンデレ風キャラ設定。パパ左大臣がご健在で羽振りがいいしご兄弟は頭中将だからさんはワガママ娘のままで、六条さんは前坊が亡くなり後ろ盾となる父も亡くし子持ちの未亡人・・・ではあるのですが・・・。そりゃあ、怨みも募れば妬ましいとも思っちゃうでしょう。それを浅ましいと理性が戒めるようとするのですが、愛執の深さから悋気の炎が燃え上がり治ることを知らず。それでも理性が残るのか、般若の形相になってさえ嘆き悲しみ泣いておられる。母になるのと引き換えにお隠れになるさんも哀れですが、恥ずかしさや心疾しさが未練として残り鬼になり切れずに泣いておられる六条さんがあまりに哀れ。
光る君に対して素直に接することの出来なかった葵の上の死に際して、その病因を明かすことは六条御息所の愛執、哀傷を解き明かしそれを癒して差し上げることに重なって、二人に送るレクイエム。
もしかして、「出小袖」が空蝉の如く抜け殻なのは、お二方が表裏一体、中身はいきすだまとなって我と我が身を打打擲しておられる?
金剛流葵上 無明之祈」では他の流儀と違って、怨霊が「出小袖(葵の上)」を抱き抱えて連れ去ろうとします。それを小聖に阻止されて、般若の形相になられても尚やはりお泣きになられている。六条御息所の怨霊葵の上を冥土への道連れにしようとしたのか、それとも・・・。

源氏物語』、分けても六条御息所のこととなると筆が止まりません。かなりの大部となってしまいました。一旦筆を置き、続きはまた何れ改めて。それまでにもう一度「葵上 無明之祈」を観能することが出来ればいいのですが。

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