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Foujita 50th [散歩・散走]

朝っぱらからエロティックな「春画」と官能的でさえある「妖怪画」を観て、「わらい」と「こわい」、”怖く”なったというより、少々”蠱惑”な毒っ気に中てられたような酩酊感。
ランチを摂って、少しは持ち直し、さて、午後からは・・・。

せっかく京都まで出向いたのですから、それだけで帰るのも勿体無い話し。今日は、京都で、ミュージアムのハシゴとプラスアルファ。
平安神宮を斜に掠めて、細見美術館から徒歩で10分ほどの所にある京都国立近代美術館に向かいます。
そこで『「わらい」と「こわい」』とほぼ同じ期間(10月19日~12月16日)開催中なのが『没後50年 藤田嗣治展』。
春画」の後に「乳白色の裸体画」ではエロ過ぎる?! でも、フジタはそれだけじゃあ、ないんです!!

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近代から現代へ移ろうパリに生きた日本人画家・彫刻家、レオナール・フジタ(Léonard Foujita)こと藤田嗣治(ふじた つぐはる 1886年11月27日 - 1968年01月29日)の没後50年を記念した大回顧展。
フジタというと、”乳白色の肌”の「裸婦像」だとか、おかっぱ頭に丸メガネとピアスとちょび髭の風貌、エコール・ド・パリの只中にあった日本人として多少知られることはあっても、(日本国内では)特集的な展覧会が催されることが少ないせいもあって、その全容が周知となる機会はほとんどなかった・・・ようにも思えますが、その人生は波乱に満ちて、彼の作品も自画像ヌードだけに止まらず多岐に渡って、その作風も時代とともに変遷、化学実験的な(?)「ミルキーホワイト」の発明や独自の手法を編み出したその功績。見過ごしに出来ないほど魅力的。
東京美術学校時代の肖像画から最晩年の作品まで、国内外から、個人所有を含む約130点を一堂に集め、彼の60年に渡る画業が紹介される、没後50年にして漸く実現したレトロスペクティヴ。

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フジタ
は生涯、ボヘミアン~定住性に乏しく、異なった伝統や習慣を持ち、周囲からの蔑視をものともしない人~であったのだろうと思う。
1886(明治19)年、東京市牛込区新小川町で、軍医であった父の元に四人兄弟の末っ子として生まれ、医者になることを求められつつ、子供の頃から絵を描き始める。
父の転勤に伴い、7歳の時に熊本市へ移り、11歳で東京へ戻って画家を志し、1905(明治38)年に19歳で入学した東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)西洋画科は当時流行の印象派写実主義が持て囃される一方で彼の作風は受け入れられず、その不遇から逃れるように、1910(明治43)年に卒業後、最初の妻となる女性と駆け落ち同然の暮らし。
その妻を捨てて、1913(大正2)年に最初の渡仏を果たすも、パリモンパルナスでの生活が1年経とうとする頃に第一次世界大戦が勃発し、日本からの仕送りが途絶え貧窮。
その大戦も終わりを迎え、漸く絵が売れ出して、初の個展を開き、独自の画風も確立し、成功した矢先に二人目の妻と不倫関係の縺れから離婚することとなって、三人目の妻とも折り合いが悪く、1931(昭和4)年に新しい愛人と手に手を取って南アメリカへ。
そこでの個展も大成功を収め、凱旋するように1933(昭和6)年に帰国。
1935(昭和8)年に、生涯連れ添うことになる君代と5度目の結婚。
日中戦争中は従軍画家として中国へ渡り、帰国後にニューヨーク、そして再びパリに飛ぶが、今度は第二次世界大戦が勃発。ドイツ軍によるパリ占領前にそこを離れ、帰国。
太平洋戦争中は陸軍美術協会理事長として、南方の戦地にまで赴き、「戦争画」を手掛ける。
終戦後はGHQから戦争協力者と非難されたことから、1949(昭和24)年に三たびの渡仏。そこで帰化し、1959(昭和34)年にはランスノートルダム大聖堂にてカトリック洗礼を受け、「レオナール・フジタ」となった。
晩年はパリ郊外の小さな家をアトリエとして君枝改めマリー=アンジュ(Marie-Ange)夫人と暮らし、1968(昭和43)年にスイスチューリヒで癌のために客死。フランス北部のマルヌ県ランスに自ら設計・建設した「フジタ礼拝堂」こと「平和の聖母礼拝堂(La Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix)」に永眠。

明治半ばに生まれ、急速に近代化する日本国内でも、新世紀の訪れとともに激動、激変したフランスパリに在っても、アルゼンチンブエノスアイレスアメリカニューヨークへ渡っても、安寧は得られなかったのでしょうか。
何かから逃れていたのか、何かを追い求めていたのか。その原因はどこにあるのか。
ボエーム(Bohème)めいた生涯は波乱を含み、その表現スタイルも所在地に応じて、時に応じて変化する。
ここに集められた130片のピースから「レオナール・フジタ」というパズルは完成させられるのか。130編のエピソードから「藤田嗣治」のひととなりを読み解くことが出来るのか。
わらい」と「こわい」より手強そう?!

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60年分の画業約130点は、
I 原風景 - 家族と風景 Primal Landscapes - Family and Surroundings
II はじまりのパリ - 第一次世界大戦をはさんで Early Paris Day - The First World War
III 1920年代の自画像と肖像 - 「時代」をまとうひとの姿 Self-Portraits and Portraits of the 1920s - Faces of the Times
IV 「乳白色の裸婦」の時代 The “Milky White Nudes”Era
V 1930年代・旅する画家 - 北米・中南米・アジア Artist on the Move - The 1930s in North America, Latin America, and Asia
VI-1 「歴史」に直面する - 二度目の「大戦」との遭遇 Face to Face with History - Encounter with the Second “Great War”
VI-2 「歴史」に直面する - 作戦記録画へ Face to Face with History - The War Paintings
VII 戦後の20年 - 東京・ニューヨーク・パリ The Last Twenty Years - Tokyo, New York, and Paris
VIII カトリックへの道行き Path to Catholicism
と、ほぼ彼のヒストリー順に展示され、その時の彼の所在とそれに連鎖する様式の変化を読み取ることが出来る。

序曲は穏やかに、最初の渡仏前の、自画像と父の肖像。
最初にワタシたちを出迎えてくれるのは、美術学校卒業時に描かれた「自画像」。まだおかっぱ頭でもなく、メガネも銀縁で、ヒゲもピアスもしていない若い藤田。学内で流行る印象派に反骨するかのような目線と黒いジャケット。背景も暗い色調で、赤いネクタイは内なる熱情の現れか。
その隣りに掲げられるのは、同じ頃に描かれた「父の像」。
胸元いっぱいに勲章を並べ、威風堂々の軍服姿の父。その表情は晴れがましくも、威厳に満ちて。
恐らく、彼にとって父の存在は大きく、良き理解者、最初のパトロンであると同時に、プレッシャー、ストレッサーでもあったのかも知れず。
医者になることを進めながら、美術学校入学を許し、学費も賄い、渡仏資金も提供した父。戦時中に軍属画家となり、陸軍美術協会理事長のポストまで用意されたのは、陸軍軍医総監(中将相当)の席にあった父に報いるためであり、父の影響。まァ、兄も陸軍大将の娘と結婚、義兄も父と同じポストまで昇進しているのだが・・・。そういう時代だったのかしらン?!
父に連れられて訪ねた「朝鮮風景」が彼の原風景?

第2曲「はじまりのパリ」のテーマは”模倣”。
最初の渡仏時は、その時代のパリに溢れ、パリに流行った多くの芸術的ismを真似て、親しくなったistたちに倣って。
キュビスム風静物」や「トランプ占いの女」は、そのアトリエを訪ねたパブロ・ピカソ(Pablo Picasso 1881年10月25日 - 1973年04月08日)の影響。その衝撃は大きく、”絵画は実にかくまで自由でなければならない”と、日本で買い揃えた絵の具を全部捨ててしまったのだとか。
この時期に、巧拙より個性、独自の作風を確立しようと模索したのでしょうか。立体派未来派に近づいたかと思うと、親しくなったアメデオ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani 1884年07月12日 - 1920年01月24日)の画風にも似た「少女像」を描いたり、その筆致は一作ごとに異なるようにも見える。特徴的な面差しの少女たちは、マティエールな衣装と背景を纏って。
そこに並ぶ風景画は光の都パリを写していながら、どこか日本的なテイストで、人影もなく灰色めいて陰鬱。戦禍の影響か、それによる困窮のためか、それともエトランゼの寂しさからか。

第3曲は「狂乱の20年代(Roaring Twenties)」あるいは「狂気の時代(années folles)」。
変化の時代のモティーフは人物画。おかっぱ頭に丸メガネとピアスとちょび髭姿のフジタや女性像。そして、たち
乳白色の下地に細い面相筆と墨による輪郭線。キュビスムから一転、やや乱視眼的な歪みを帯びて、立体感、遠近感の乏しい、日本画にみるような平面的なフォルムに西洋的な陰影を加味し、白ひと色の中にも微妙な濃淡があって、それが微かな深みを齎す。
一部の作品は、背景に金箔や銀箔を使い、日本画の様式。あるいは、恰もそれらを張ったかのような格子模様を手描きして。
そして、硫酸バリウムとタルクの上に炭酸カルシウムと鉛白。墨で細く描かれるプロフィール。彩りは油絵具。これらを活かすために、目の細かい生地からキャンバスを自作までしている。オリジナル・キャンバスの上のケミカル・フォーミュラ。藤田Foujitaへ変化するケミカル・リアクション。
大パトロネス、アメリカの富豪女性を描いた「エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像」はこのエキシビションのためにシカゴから初来日。

その新しいスタイルを推し進めて描いた「ミルキーホワイトなヌード」。乳白色が活きる、それが第4曲の主題。
白い背景に乳白色の肌をした女性像。CaCO3と2PbCO3/Pb(OH)2から成る朧げなグラデーションが筋肉の張り、脂肪の厚みとなって、艶かしい肉感的なヌードが日本画的な背景の前に浮き上がる。
ミルキーはママの味!? 多くの裸婦モデルは恋人、愛人、妻となった女性・・・ではあるのだけれど、その光り輝く女性像は、単に愛する人の生き写しなのか、若いうちに失くした母の面影を訪ねたのか、敬慕する聖母(マドンナ)像なのか。生涯で5度も結婚を重ねていることを考えると・・・、彼にとっての理想の女性、彼にとって光り輝く女性とは・・・。
白く幻想的な女性とは対照的に、極リアルに描かれているのがニャンコたち。表情豊かで愛くるしくて。ここからはネコがいっぱい!!

第5曲も転機。
一躍時代の寵児となり、人気も絶頂、フランスやベルギーから勲章を贈られるほどに成るも、その劇的変化は私生活にも大きく影響し、フランス人モデルのフェルナンド・バレエと不倫関係の末に離婚し、フジタが「お雪(Youki)」と呼んだリュシー・バドゥと結婚するが、その才色兼備のフランス人女性は酒癖が悪く、夫公認のゲス不倫。すぐに破局へと至り、新しい恋人はマドレーヌ
南アメリカでの個展開催に合わせて、パリの悶着から逃れるようにブエノスアイレス。
「乳白色」から一転、黒い肌に色とりどりの衣装を纏った現地の人々。マドレーヌの白いヌードも描いてはいるのですが・・・。
そして、二年の後、日本に戻っては、「ちんどん屋」や「魚河岸」の少年、大きな「お角力」さん。房州太海から秋田、沖縄・糸満。旅する画家は日本国内も巡って。

第6曲は、再びの戦乱。
支那事変は大東亜戦争へと波及し、フジタ小磯良平(1903年07月25日 - 1988年12月16日)らとともに従軍画家として中国に渡る。その後一旦はパリへと戻るが、第二次世界大戦が始まりパリへと進行するドイツ軍を避けるように帰国。太平洋戦争に参戦した日本軍の要請で陸軍美術協会理事長に就任し、南方戦線を訪問、「戦争画」を描く。
ここに並ぶのは、戦場の凄惨さを描いた「アッツ島玉砕」、「サイパン島同胞臣節全うす」などそれら暗く重い作品と、その対極にあるような、多くのが並ぶ「サーカスの人気者」、たちが戯れ合う「争闘(猫)」、「人魚」。「自画像」は坊主頭に改まっている。
アッツ島」にしろ「サイパン島」にしろ、とても大きなサイズとなった渾身の大作でもあって、”生きて捕虜とならず、名誉の死を賜る”といった臣節、教育勅語的な絵とも見えて、確かに「戦争記録画」ではあるのでしょうが、「アッツ島」では日本兵とともに米兵も折り重なるように倒れ、その夥しい戦死者の群像は戦後糾弾されたような”戦争協力者”の作品とは見えず、むしろ、戦争の悲惨さ、争いの無意味さを伝えているように思えます。

その批難から逃れるようにパリへと移るが、そこはまだ戦後の混乱の中。多くの友人はこの世を去るか、アメリカへと亡命し、再会を悦び合えたのはピカソや数えるばかり。
第7曲は、静かで穏やかな暮らし。 そこに展示されるのは、そうした暮らしの中の、漸く手に入れた安寧。柔らかな貌をした人物像や市井の風景。マリー=アンジュ夫人のために造って、絵付けした木箱や装飾皿。それと夥しい量の日記帳。

それに続く最終曲は、「十字架」や「聖女」、「母と子」に「聖母子像」、黙示録からモティーフを得た「宗教画」。
集大成となるのは「礼拝(Adoration)」。天使や少女に囲まれて、聖母の前に跪いて祈るレオナールマリー=アンジュ夫人。
1955(昭和30)年にフランス国籍を取得し、日本国籍を棄て、1959年(昭和34)年にはランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受ける。洗礼名の「レオナール(Léonard)」は、彼が敬愛したレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 1452年04月15日 - 1519年05月02日)に由来する。
病いを得て死を意識したのか、ひとつの遺作とも呼べるのは、ランス市へのオマージュとして建てられ、メゾン・マムの敷地内に遺る「フジタ礼拝堂」こと「平和の聖母礼拝堂(La Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix)」。
設計から調度に至るまでフジタの意向、その壁には彼の手によるフレスコ画。
フランス国籍を持たない、ドイツからやって来た酒造家のメゾンの中、シャンパンに囲まれる小さなチャペル。
1968(昭和43)年に膀胱癌からスイス・チューリヒの病院で亡くなったレオナール・フジタの遺体はそこに埋葬される。

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全8曲の交響詩集は130もの主題が連なり、それらは様々な表現を持って、僅かな時間で訓み解くことは出来ません。
生前は(日本国内に於いては)公平な評価を得られなかったフジタエコール・ド・パリの代表的画家、特異な才能から独自の画法を物した芸術家として注目されるようになったのは、君代さんが所有した作品が2007年に東京国立近代美術館に寄贈されてから。君代さんが没したのち、2011年になって、フジタから受け継いだ遺品(日記、写真、映像)の数々が東京藝術大学(旧東京美術学校)に寄贈された。

歴史にif・・・、”もしも”や”たられば”は禁句・・・ではあるのでしょうが、もし、父が軍医でなかったら、あるいは戦争さえ無ければ、東京美術学校で認められていたら、日本国内で数々の賞を受賞し絶賛されていたら、彼はエトランゼとならず別の人生を歩んでいたのかしらン?
作品に添えるサインが、藤田であったりその旧漢字であったり、フジタになったりフヂタとしてみたり、FujitaFoujita、幾つも移り変わって、それも恐らく、父を””げない慚愧の念、申し訳無さからなのではないのでしょうか。あるいは、葛藤の現れ。
旧い時代から""がれてきた家柄。地動説みたく自分たちが世界の中心と考える旧い体質の画壇。それが無ければ・・・。
今や天動説どころか、多元宇宙論の時代。作家それぞれが各々の宇宙を持っていると考えるべきだとワタシは思う。「〜派」とか「〇〇主義」と纏めるのさえどうかと思う。藤田Foujita
藤田嗣治からLéonard Foujita
日本国籍からフランス人となったのも、カトリックへの信仰を示したのも、1941年にその父が他界してから。戦争協力者と非難されてパリへと逃げ出した時でもよかったはず。
父への畏敬がキリスト教への信奉へと変わったのでしょうか。
それまではパリに在っても日本人であろうとしていたのでしょうか。

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でも、ね。彼がエトランゼとならず、エコール・ド・パリに身を置くことにならなければ、ミルキーホワイトの裸婦像も、もしかしたらたちの肖像も観ることが出来なかった・・・かも。もっと早いうちに回顧展は開催されたでしょうが、内容は異なるものになってしまったでしょうね。
暗い画面の「アッツ島玉砕」はのちの「宗教画」と繋がって、ピカソの「ゲルニカ」に匹敵するような意味を持つように感じられるのですが、どうでしょう。

機会があれば会期中にもう一度訪ねたいと考えるのですが・・・、いや、時間を作って再訪したいと思います。

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