「わらい」と「こわい」って? [散歩・散走]
今日もフランス近現代芸術を巡る知的冒険・・・なのですが・・・、もしかしたら、今日は”知”ではなく“痴”的冒険・・・ですかね⁈
先ずは、平安神宮のお近く、細見美術館で、10月16日から12月09日を会期(4期に分かれ、展示替えあり)として開催中の『日文研コレクション 描かれた「わらい」と「こわい」展 - 春画・妖怪画の世界 -』を拝見します。
日文研とは、国際日本文化研究センターのことで、日本文化に関する国際的・学際的な総合研究と世界の日本研究者に対する研究協力・支援を行うことを目的として、1987(昭和62)年に設置された大学共同利用機関法人 人間文化研究機構。
ですから、展示されるのは日本画、主に江戸期に描かれた浮世絵で、日文研が設立以来コレクションした春画と妖怪画750余点から精選された150点が展示されるという。
それは初の試みで、世界初公開となる作品も含まれるのだとか。
内容が内容だけに、「18歳未満は入場不可」となっています。
「わらい」と「こわい」、随分と曖昧な表現になっていますが、ぶっちゃけ、展示されるのは「春画」と「妖怪画」。画題は、思わず笑っちゃうような性風俗と恐怖を覚えるような摩訶不思議な妖(あやかし)たち。
怖いはずの妖怪たちは時にユーモラスで笑ってしまうものもあれば、性的な営みの中には死を暗示するものもあって、「わらい」と「こわい」は表裏一体、あるいは隣同士。
で、「わらい」と「こわい」のテーマは、「性」と「死」でもあるそうなのですが、ワタシとしてはその中からフランス近現代芸術への影響を探るのが目的。
決して、エロ目線の、興味本位ではありません。あくまで学術的な嘱目・・・?!
クロード・ドビュッシーの『海 - 管弦楽のための3つの交響的素描(La Mer, trois esquisses symphoniques pour orchestre)』の楽譜表紙に描かれるのは葛飾北斎の「富嶽三十六景 『神奈川沖浪裏』」の模写で、それから楽曲の着想を得た・・・云々。
それに疑問を感じたところから始まったワタシの痴的知的冒険(→記事参照)。
本来なら、神奈川県に行って、カレー海峡(ドーバー海峡)まで出向いて、どちらから『海』が聴こえてくるか、見比べればいいのでしょうが、興味はフランス近現代絵画の方に進展しちゃって、冒険はパスポートの要らない美術館巡りになって、今日は日本画のうち「春画」と「妖怪画」。
ドビュッシーはともかく、フランス近現代美術には、ジャポニスム(Japonisme)、日本美術の影響が色濃いものも散見されて、その中には「春画」から刺激を受けたとされる作品もあって、晩年のパブロ・ピカソが描いた版画の幾つかもそこに含まれる。
艶やかな衣装を着けた「美人画」が珍重されて、主に性行為を描いた「春画」は、そのポーズ、構図が人間業とは思えないくらい(?)アクロバティックであったり、性器がデフォルメされて極端に大きく描かれていたりもして、あまりに猥褻であるからとジャポニスムに湧くヨーロッパにあっても一部では毛嫌いされて、破棄されたりもしたらしいのですが、伝統的なアカデミスムをよしとしない革新的な芸術家からの支持を得て、その影響を受けたとされる作品も残ります。
ヌードを描きたい(眺めたい)がために神聖な女神様や歴史上の人物を無理矢理「裸体画」にしちゃうより、ましてや真っ裸でピクニック・ランチさせちゃうくらいなら、多少下世話でも日本由来の風俗画の方が大らかで自然的? まァ、余りに露骨で赤裸々ではありますが・・・。
今でこそ、インターネットで「春画」と検索すれば見つけられないことはないのだけれど、「秘画」、「枕絵」とも呼ばれ、あまり陽の目を見ることのない「春画」。
木版画の摺物である浮世絵や折本、現存するものも多くあって、著名な美術館などもコレクションしてはいますがその殆どは非公開。
先達て拝見した「フランス国立図書館 版画コレクション ピカソ 版画をめぐる冒険」(→記事参照)。
そこではピカソの版画とそれに影響を与えたとされる作品が約100点展示されたのですが、ピカソのリトグラフと日本の浮世絵の関係は語られることもなく、フランス国立図書館(BnF)が多く所蔵するという「春画」コレクションが日本に出張してくることも無かった。
隠されると観たくなる!?
・・・ところへ、『「わらい」と「こわい」』。フランス近現代芸術を巡る知的冒険は、「北斎展」以来、渡りに船を得続けて。
会場となるのは、元文部科学省所管で、現在は公益財団法人細見美術財団が管理、運営する京都府の登録博物館で、大阪府泉大津市で毛織物で財を成した実業家・細見亮市とその長男、細見實、三代細見良行の三代が収集した東洋古美術品を展示するために開設された美術館。
暦の上では冬が立ったばかりで、体感的には秋真っ盛りとなるはずが、今日の京都は鴨川沿いのシザレザクラこそ葉を散らしているものの、懐かしいイチョウ並木は殆どがまだ青がかった葉を繁らせて、紅葉の見頃はもう少し先・・・どころか、今日の陽気は小春日煌めくというような爽やかさではなく、気温は「夏日」に近くて、Tシャツ一枚でも汗ばむよう。「春画」を観るには季節外れ?
10h00の開館と同時にお邪魔します。
土曜日とはいえ、朝っぱらからエロティカやモンスターを観ようという物好きは多くないようで、比較的閑散としているのですが、まァ、「春画」や「妖怪画」の前に人が詰め掛けて、ごった返しているというのもどうかと思う。独りでコッソリ観ている方が気分がアガる?!
それに、大判の錦絵ならまだしも、ほとんどが小さなB5〜A4サイズくらいの大きさだったり、折本やカルタになるとはるかに小さくて、部分的に擦り切れたりもしていて、覗き込まないと細部までは窺い知ることは出来ない。
展示構成は、
イントロダクション
生・性・死
復讐する幽霊/退治される妖怪
不思議な生き物/おかしな生き物
おおらかな信仰
わらい/戯れ
おもちゃ絵 ー 妖怪で遊ぶ、性で遊ぶ
とテーマごとに分けられて、そこに展示される約150点は、1680年代(天和年間)から1930(大正19)年に製作されたもので、絵画作品の多くは江戸期の、新聞記事や歌留多、双六の一部は明治維新後に作られたもの。
絵師不詳のものも含まれるのですが、葛飾北斎を始め、菱川師宣、円山応瑞、月岡芳年、狩野派・土佐派・円山四条派に、歌川の名を受け継ぐ一派の名が並び、巻子本に折本、錦絵があれば墨摺りの横本など判型も様々。
怪異を描いた作品の、酒呑童子、土蜘蛛、怪猫、四谷怪談に牡丹灯籠などの画題は見知っていても、「春画」は「秘画」でもあって、眼にしたことのないものばかり。どれがいつヨーロッパへと流れて、ジュール・ド・ゴンクール(Jules Huot de Goncourt 1830年12月17日 - 1870年06月20日)やピカソの眼に触れたのか、それは分からない。日本画独自の画風、構図、色彩感に加えて、本来秘すべき部分を敢えて誇張して描いた「春画」は面白いと興味を与え、従前のアカデミスムからの脱却を模索していた画家に影響したのは窺い知れる。
唯一目にしたことがあるのは、通称「蛸と海女」として知られる、筆名”鉄棒ぬらぬら”こと葛飾北斎が描いた艶本『喜能会之故真通(きのえのこまつ)』の中の一枚。
1981年公開の新藤兼人監督作品の映画「北斎漫画」の中で実写化(?!)されたことで有名になったンでしたっけ。
これもヨーロッパで、美しい裸婦と悪魔的な怪物蛸が情を交わすシュルでグロテスクな絵画として面白がられたそうなのですが、実は、「タコ壷」と称されるほどの”名器”をお持ちの海女さん、多くの男たちを手玉にとって、それを自負するだけにとどまらず、ちょっと鼻にかけていたら、本物のタコさんの、八本腕による愛撫(それも二匹掛りで十六本!?)、その手管で簡単に組み敷かれることになって・・・(ほんとはもっとストレートな表現にしたいのですが、このブログでは下ネタ禁止となっておりますので・・・)。生兵法は怪我の元、本物には敵わないという、道徳めいた教訓・・・を含んだお話しだったかしらン?
この後、この海女さんはあまりの快楽から”鮑”になっちゃった・・・はずですな。
これなんて、「春画」なのか、「妖怪画」なのか、よく分かりません。
他も同様。
いかにも「枕絵」というイメージの男女のまぐわいをストレートに描いたものもあるのですが、貌が性器に変化したものや骸骨やオバケとの契りを描いたもの、妖怪同士の交尾(?)もあって、「わらい」と「こわい」の境界線は曖昧・・・というか、本当に横並び。
「エログロ(ナンセンス)」は昭和の造語ではあるのだけれど、今回出展されている作品群はその先駆け。そのコンセプトは平安期にまで遡るというから、やんごとなき殿上人であっても、みんな、エロやらグロやらナンセンスなものが好きなんじゃないか。
しかし、単にエロい、グロいというだけではなく、そこに風刺や教訓、寓意が込められ、ひとつの文化として、連綿と続いたのでしょう。
で、以前から気になることがひとつ。
男女の性愛を描くにしても、ともに全裸ではなく、着物・・・それもそこそこ艶やかな・・・を着た状態でことに及んでいるのはなんで?
やたらとアクロバティックな体位で、秘所だけを大きく描いているのはなんで?
江戸期までは、男たちは半裸で働き、銭湯なども混浴で、お互い裸体は見慣れているから、秘められた部分だけをデフォルメ、拡大視しちゃったン?!
絵師はその構図と色彩を下描きし、彫師はそれを木版に忠実に写し、摺師はそれを細大漏らさずに大量プリント。それぞれが持てる力量を発揮するためにそうした定型パターンが出来上がっちゃったんじゃないでしょうか。
全裸の男女だけでは画面はほぼ輪郭線だけの真っ白け。背景や着物の柄まで細密に描き込んで。細部までリアルに描くために性器はちょっと拡大、精密に彫れるギリギリのサイズ(?)にしちゃった。
頭髪は男女ともに髷を結うから、せいぜい生え際や髪のツヤ感だけの表現にとどまる。その点、脇毛や陰毛ははえ放題?! それを緻密に描いて、彫り上げて、木の板から紙の上に印刷してみせる。絵師と彫師と摺師の最大限のパフォーマンス。
貌も綺麗に描きたい。秘部もあからさまに示したい。画面を派手にする着物も必要。それとバランスする背景も丹念に表したい。一枚の小さな紙に、これでもかと、情報がテンコ盛り!!
で、結果、解剖学的には有り得ない方向に関節が曲がっちゃって、アソコはやたらデカくなっちゃって・・・。だから、好き勝手出来るように、画題も幻想的。
これを夜の秘め事のマニュアルにしたら、身体中脱臼必至でしょうな。
絵師はともかく、名も無い彫師や摺師も交えて、三者のパフォーマンスが結実したアート・・・芸術作品。表向きな風俗画よりチカラが入った、名前が表に出ないからこそ、そのテクニックをアピールしたかった?
それもあってか、「春画」を復刻しようというプロジェクトも試みられていて、鳥居清長作「袖の巻」に現代の彫師、摺師が挑んだ作品も並べられている。
「春画」がファンタジックなら、「妖怪画」はもっと幻想的。
「地獄絵」や死体が朽ちていく様子を描いた「十相図(九相図)」などオドロオドロしたものから、ユーモラスにアレンジされた百鬼夜行図、千畳敷の陰嚢を誇示するタヌキも妖怪の仲間。
源頼光さま率いる四天王や宮本武蔵が怪物と戦い、想像を絶するような妖怪たちが暗い画面の中で跋扈する。
これらは絵師の想像力の産物なのでしょう。
「春画」と「妖怪画」。「わらい」と「こわい」。
本来は秘すべき部分をあからさまにし、闇に潜む恐怖を白日に晒して笑い飛ばす。
確かに、ヨーロッパ・・・というよりキリスト教圏から観れば、かなり奇異・・・というか異端。
中世から近代への転換期にそれらを見ちゃった人は驚いて、感銘を受け、刺激されたのでしょう。
そこに描かれる営みや怪異、妖の類はあまりに日本的。人智を超えた不可思議な存在や非日常的な現象を具象化、キャラクター化した物の怪たち。
色鮮やかな着物を纏った「美人画」は額装して部屋に飾ってもまさに絵になるでしょう。デフォルメされた肖像画となる「大首絵」も独特の面白さを醸すでしょう。
それに対して「春画」や「妖怪画」は、サロンやリビングルームの壁を飾るには少々不適切。秘蔵しておいて、時々取り出してはニンマリしながら鑑賞するのが相応しいのでしょうか。劇物とまでは言わないにしても、取扱注意の「秘画」、「枕絵」。それ故のコレクターズ・アイテム、レア物。
文明開化を経て、近世までのエロティカは現代的なフォトグラフやヴィデオに変わってしまって、随分明け透けになって、雑誌やテレビに溢れることになって、「秘画」感が希薄化。
秘所を晒すことは法律的に禁止されているものの、裸(に近いもの)は巷に溢れ、妖怪や物の怪はよりキャラクター化されちゃって、漫画やアニメのモティーフとなり、一部は子供たちのお友達になりました。
雑誌の表紙や巻頭グラビアは少年誌でも当たり前になって、イラスト、漫画、アニメでもやたらに胸部が肥大化していたり、ウエストが有り得ないくらいくびれていたり、ファンタジー度は「春画」と変わらない?
「ポケットモンスター」に「妖怪ウォッチ」、第6期を数える「ゲゲゲの鬼太郎」では主役を差し置いて猫姉さんこと猫娘がトレンドになっちゃって。
身近にはなったものの、秘匿されるものでなくなり、畏怖すべきものではなくなり、どちらも若年層向けになっちゃって、大人の愉しみじゃなくなってしまった。
オトナとしては、表層だけを眺めてニンマリするより、その中に潜む作者の真意を読み取って、それを表現した製作者たちの技巧を鑑賞・・・しないと、ね。
さて、時間も頃合いで、お腹も空いてきた。
外に出ると、観光シーズンの京都のど真ん中。何処も混雑しているだろうからと、細見美術館の最地下にあるCAFE CUBEが今日の昼食場所。
パスタセットから「野菜のアーリオ・オーリオ」を選んで。
ランチ後は、京都国立近代美術館で開催中の「藤田嗣治展」に向かいます。
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