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ISMを超えて ~ キスリング回顧展 [散歩・散走]

多少涼しさも感じられるようになって、行楽シーズンの四連休。
とはいえ、まだまだ予断を許さぬコロナ・クライシスの最中にあって、人出の多い場所は極力避けたいところ。
しかし、行楽シーズンで芸術の秋。
連休初日の19日(土)は「大阪クラシック」の最終日。「フィナーレ」だけは外せない。
その後は、お彼岸やら敬老の日やら、そのまま堺の実家に帰って親孝行の真似事をするも、籠っていられるのは二日が限度。
四連休の最終日は、逼塞感を払拭すべくボエーム(Bohème)な、フランス近代絵画の集大成にして、現代美術の魁け、「モンパルナスの帝王」、「モンパルナスのプリンス」と呼ばれたキスリングの回顧展を訪ねます。


何しろ、ねェ。この春先からの状況を鑑みるに、こうしたエキシビションも急に突然、休止や中止を余儀なくされるか分からない。観たいものは観れるうちに観ておかないと回顧がひっくり返って後悔になっちゃう?!

日本では12年ぶりとなる、モイズ・キスリング回顧展「キスリング展 エコール・ド・パリの巨匠」。
関西近郊では、JR京都駅の上、ISETANの7階にある美術館「えき」KYOTOで、会期が09月21日から10月25日まで。この先一ヶ月もあるやん・・・とは言ってられない・・・かも知れない。
こんなご時世に暢気にアート鑑賞なんてと後ろ指をさされちゃうかも知れませんが、ワタシもボヘミアンですから気にしません。

モイズ・キスリング(Moïse Kisling 1891年01月22日 - 1953年04月29日)はポーランド・クラクフに生まれたユダヤ人。
地元の美術学校に学んだ後19歳でパリに出て、多くのアーティストが暮らすモンパルナスで画業をスタートさせ、それからモンマルトルはラヴィニャン街の共同アトリエ、バトー・ラヴォワール(Bateau-Lavoir・洗濯船)に一時身を置いて、自由奔放ながら自堕落で不道徳で貧しくて酒と女に溺れるボヘミアンの中にあって、比較的真っ当な人生を歩み、生前から作品が売れもして、それなりに成功をおさめた、エコール・ド・パリ(École de Paris・パリ派)の画家。

19世紀末から20世紀初頭は様々なismが興り、多くのistが横行したパリ。
サンボリスムにインプレッショニスム、フォーヴィスムにキュビスム、クロワソニズム、プリミティヴィズム、エトセトラ、et cetera。ネオ印象派だとかポスト印象派だとか細分化し出すとキリがない。ブームになったジャポニスムも加えておきましょう。
お隣りの国まで広げると、ドイツ表現主義に分離派、イタリア未来派。そして、シュルレアリスム。
スタイルとして、アール・ヌーヴォーやアール・デコ。絵画や美術に留まらず、音楽や文学と影響し合って、さらにはデザイン化されてポスターや挿絵、日用工芸品や家具・インテリアにまで広がって、光の都パリにアートが百花繚乱、芸術のお花畑やァな状態?
芸術の首都となったパリには欧州だけに留まらず、世界中から芸術家が数多集まって、パリ市内にボヘミアニスムなコミュニティーを形成し、その拠点、ボヘミアとなったのがモンマルトルやモンパルナスで、そこでボヘミアン的な生活をしていた、ポーランド人、スペイン人、イタリア人、アメリカ人、イギリス人、オランダ人、ロシア人に日本人、等々その多くはユダヤ系でもあって、彼らエトランジェのアーティストたちはパリの画廊で催されたエキシビションに因んでエコール・ド・パリと呼ばれるようになる。
フランス生まれの生粋のフランス人画家たちはちょっと距離を置いてエコール・ド・フランセーズ(École de Francaise)と名乗ったりもしたから、多少差別的な意味合いも込められていたのでしょうか。何しろ、あまりにボエームでお行儀のよくないところもあったりして、余所者の集まりと見做されていたのかも。
パリ学派」と訳されるのですが、それぞれの主義主張は個人主義(individualisme)的にバラバラで、エコール(École)は学校、学舎ですから、芸術の首都を自負しつつアカデミスムに近しいヒトたちは、フランス画壇をそうしたエトランジェたちに占拠されちゃうんじゃないかと危惧しながら、パリに学びに来た(少々素行の良くない)留学生と十把一絡げにしちゃったのね。

そんな中、最初に憧れを抱いて学んだのが印象派(impressionisme)。
洗濯船ではパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックらとキュビスム(Cubisme・立体派)の在り方について日夜議論し、さらにはアメデオ・クレメンテ・モディリアーニやレオナール・ツグハル・フジタこと藤田嗣治とも深く親交を結んだキスリング
ポーランドに産まれながらユダヤ人。パリに在ってはボヘミアン。
Moïse(モイズ)というユダヤ名を嫌って、作品にはKisling(キスリング)とだけ署名し、第一次世界大戦ではフランス軍外人部隊に志願従軍。それで負傷と引き換えにフランス国籍を得ながら、第二次世界大戦でも49歳(!!)で外人部隊に志願入隊。ナチスのユダヤ人弾圧を逃れてアメリカへ一時亡命するも、やはり”住むなら都”と戦後は憧れの地フランスに戻り、エコール・ド・パリのボヘミアンとしての人生を全うし、62年の生涯を終える。

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亡命中の作品をも含む約60点を国内外から集めた回顧展。
アントレ(entrée)・・・美術館入り口には制作風景や暮らしぶりを撮したフォトグラフを壁紙に、彼が描いたベル・カズーことコレット・ド・ジュヴネル嬢(アンリ・ド・ジュヴネル、シドニー=ガブリエル・コレット夫妻のお嬢さん)がその作品の中で着ていた衣服のレプリカがお出迎え。美術館が入るISETANのペーパーバッグにも似て、Bay City RollersやTHE CHECKERSをリスペクトした新しいユニフォームかと・・・。

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んン?! へんなのがひとつ紛れてる?

ほぼほぼ製作年代順に並べられた約60点の作品は、裸婦像を含む肖像画にパリ近郊や南仏の風景画、静物画の多くは花器に生けられたお花。
その画風、具に診てみると、年代に関わらず1点ごとに筆致が異なるように見えて、キュビスムだとかフォーヴィスムと一括りには出来ないような。
例えばポートレイト。
喋り出しそうなほど写実的に描かれた貌があるかと思えば、陰影を少なくしどこかマネキン人形みたいで二次元的な顔もある。
例えば風景画。
印象派を思わせるような点描に近いグラデーションを示す空があるかと思えば、筆跡も荒くベッタリと重たげな水面がある。
同じお花を描いても、複雑な奥行き感とともに油彩絵の具が盛り上がりほどに超立体的に描かれていたり、水彩画のように観えるものがあったり。
インプレッショニスム(印象派)、フォーヴィスム(野獣派)、キュビスム(立体派)、さらには古典的な技法を加えた、筆致の総合商社やァ的なタッチ。
共通するのは、遠近感を崩してどこか不安定に見える構図。メランコリックでアンニュイな女性の貌。どちらかというと静的で、明るく輝かしい色彩。
クラクフでの画学生時代は主に印象派の技法を学び、その発祥地を目指してパリに入り、立体派の洗礼を受けちゃったもののあまりに前衛的過ぎると没頭するに至らず、野獣派のように感覚だけ頼らず、独自の作風を模索することになったのでしょう。マティスやピカソ、ブラックの後追いになることを嫌ったのでしょう。

数多のイズムが勃興し、多くのイストが横行した時代。
美術、音楽、文学の交流も盛んで、それぞれに往来があって、友好的な関係にあったかと思うと袂を分かち、爾汝の交わりがあったかと思うと啀み合って、讃え合ったとみるに批難し合う仲となる、それぞれに主義主張を掲げる個性的なアーティストが多かった当時のパリにあって、誰とも親しく交わったというキスリング。ひとえに、陽気で面倒見が良い彼の人柄によるところなのでしょうが、その交わりの中で様々なイズムを学び得て、イズムに束縛されず、イズムを超えた「モンパルナスの帝王」。
流れ揺蕩うけれど、その水に染まらず。いかにもボヘミアン的で、エコール・ド・パリの象徴ともいえるキスリング

ピカソのように時代時代で画風が変わるのではなく、意図的に作品ごとに変化をつけているようにも思える。生前から売れっ子画家であったようで、顧客の依頼によって描きようを変えていたのかしらン?
ディスプレイやモニター越しに見ると、遠近感を度外視しちゃって、平面的に構図が歪んだ様はジャポニスム(Japonisme)、浮世絵や日本画の影響かと感じていたのですが、実際に作品を眼にすると・・・。

なんだかとてもデジタル的(個人的見解です)。
ピクセル画、ドット絵のようでもあって、作品ごとに画面解像度、ピクセル(画素)密度を調整しているように思える。
遠近感が薄い代わりにレイヤー(階層)を重ねたような奥行き感。
構図が歪んでいるのは、三次元から二次元に投影する際の投影法によるところ。色彩のバランス(均衡)を優先し、画面上のコントラスト(対比)を調整するため。
フォーカス・・・光学的な焦点じゃなくて、幾何学的な焦点で対象を捉えている?
キャンバスの中に鮮やかな色彩で描かれた柔らかいフォルムをじっと観ていると、カッシーニとかデカルトとか数式がアタマの中に浮かんできちゃう。ヤバイ!! やばいよォ!

で、一番ヤバかったのは裸婦像。
ポートレイト、それも女性像を多く描いたキスリング
ほとんどはちゃんとオシャレな衣服を身につけているのだけれど、ヌードも数点あって、胸元を隠して恥じらう乙女がいるかと思うと、定番的なポーズ・・・一糸纏わぬ姿を惜しげも無く晒して長椅子に横たわるモデルも居て。これが、ねェ。
多くの画家が競い合うように画題とした裸婦像もキスリングは独自の解釈。
お顔は他の肖像画と同様にどこかマヌカン人形めいて作り物っぽいのだけれど、胸部から腹部にかけてはとても肉感的で、レアリスムを通り越して、触れたくなるほどに生々しくて艶かしい。作品に触れてはいけません。
その分背景は、有るか無いかに大雑把。適度に濃淡を付けて塗り潰しただけにも見える。
作品ごとどころか、ヌードはパートごとに画素密度が異なる、野獣的で感覚的な筆致と古典的で精緻な筆致が混じり合って同居している。
ピカソのどっちを向いているか分からないポートレイトとは違う。モディリアーニほどは単純化していない。フジタの乳白色の裸婦像の神々しさに近いようで、そこまで神格化されていない、キスリングの裸婦像。
穴が空くほど観ちゃうんだけど、ヌードに魅入っていたら、それこそヤバイヒトだと思われちゃう?!

ワタシの眼を一等惹きつけたのは静物画のお花(としておきます)。
荒々しいタッチで簡略化されたものもあれば、繊細緻密な筆致で書き込まれた花束もあって、それぞれがなんとも表現し難い風情を醸す。
肖像画にしろ静物画や風景画にしろ、写実的な超細密画ほど情報量が多くなくて、抽象画のように素っ気無いわけでもなくて、ちょうどいい塩梅の深度、密度。対象のニュアンスを寸分漏らさず表現しながら、不要と思える部分は省いちゃう。虫めがねや顕微鏡を必要とするわけじゃなく、といって、何だこれと二度見するほど大雑把でも無い。彼の視点と幾何学的焦点、光学的焦点の重なるところにあるもの。画題の本質を際立たせるための解像度。
もちろん静止画で、動いてはいないのだけど、胸を打つ絵画は音楽が聴こえる・・・ような気がして、映像でいうところのフレームレート、リフレッシュレート、映像のサンプリング周波数がちょうどいいところにあるのでしょうね。それが鑑賞者(ワタシ)の琴線に触れて、いい音色を奏でてくれる・・・と感じる。
心に響く、胸を打つ、ときめいちゃうってそういうことなんだと思う。
おっぱいとお花にドキドキ・・・。
おっぱいとお花が好きなオトコに悪いヤツはいない・・・よね、多分。
いいのか、こんな結びで。

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