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ピアノの内的世界 ~ 橋本京子ピアノリサイタル [音楽のこと]

今日の「ワンコイン市民コンサートシリーズ 第41回公演」は『橋本京子ピアノリサイタル
〜 ピアノの内的世界

ピアノの内なる世界?? 今回は随分、難しそうだぞ。

 

ピアノの黒くて大きなボディの中には・・・、
金属製のフレームがあって、そこには200本以上の金属弦が張られていて、鍵盤に連動するハンマーがそれを叩くことによって発音する。って、そういうことではない?
メカニカルなお話しではなく、フィロソフィカルなことか、セオリカルなこと・・・事に因るってぇと、サイコロジカルなお話し・・・でしょうな。
どんなインナーワールドが展開されるのかは伺ってみないことには分からないぞ。

大阪大学豊中キャンパス内に建つ大阪大学会館。もう何度そこを目指して急な坂道を登ったことだろう。梅雨時の蒸し暑い、湿った空気に溺れつつ待兼山を登り切ったのが午後2時過ぎ。
いつも通り、開場が14:30、開演が15:00。慌てることはない。

今日の演奏者、橋本京子さんは、伝説的ピアニストであり教師であったジョルジ・シェボックより「非凡な音楽的才能をもち、現代において最も素晴らしい演奏家の一人である」と称賛されたピアニストで、1978年以来、スイス、米国、ベルギー、オランダなどに居住、現在カナダ、モントリオールに在住し、名門マギル大学音楽学部ピアノ本科教授、及びピアノ科主任を務める傍ら、その演奏活動のテリトリーは全世界に及ぶとのこと。
 
ワンコイン市民コンサートシリーズ」のステージに登場されるのは今回が二度目。
2013年にも『Bたちが踊るとき、、、』とタイトルされたリサイタルを催された。そのタイトル通り、J.S.バッハベートーヴェンバルトークの作品・・・しかもそのイニシャルBの作曲家が残したダンサブルな楽曲を集めた興味深げなコンサートであったが、残念ながらワタシは拝見することが適わなかった。大阪大学の門前まで辿り着いたところでiPhoneに着信、すぐに来てくれという職務上の依頼。人情的にはコンサートを取りたいが、義理を欠くわけにもいかず、目前で聞き逃した、観逃した。
 
で、今日は観逃したくない、聞き逃したくない。今日の演目はその舞曲集から趣きを変えて、
 
シューベルト 4つの即興曲 D935
寺嶋陸也 12の前奏曲集より no. 1,2,3,4,5,9.
ドビュッシー 前奏曲集 Book II 7-12
 
となっている。
 
開演時間となって、「ワンコイン市民コンサート」実行委員会の萩原先生に導かれて、1920年製Bösendorfer252が待つステージに橋本京子さんが登壇。
1曲目のシューベルトについての解説。
シューベルト最晩年の作品で、『第1曲』と『第4曲』がヘ短調、間の2曲は長調ではあるけれど、けっして長調だから短調だからというという曲想ではない。云々。
ワタシは、この楽曲はジグソウパズルのようだと思う。間口が広く、奥行きも深い。簡単なようで、実態が掴みづらい、フランツ・シューベルト最晩年、1827年頃の作品。「大ソナタ」のようでもあるし、4つの楽曲からなる「組曲」とも取れる。死期を予感したシューベルトの複雑な心情を反映しているのか、リリカルではあるのだけれど、複雑で細やかな感情が入り乱れるようで、それをどう読み解くか、演奏家がどう解釈するかで表現されるニュアンスが異なるように思える。多くのピースの組み合わせ次第で曲想が変わってしまうように思える。
橋本京子さんのピアノは、大胆かつ繊細に、それをダイナミックでセンチメンタルに表現していく。様々な病いに冒されて死を目前にした作曲家の哀感と悲壮・・・といったところか。「歌曲の王」の作品らしく、抑揚たっぷりにピアノを歌わせる。
 
前半のシューベルトを終えて、橋本京子さんがこれまで師事した、斎藤秀雄やMenahem Pressler、Ferenc Rados等々、錚々たるmentorたちの紹介。それぞれを恩師と仰ぎながら、それぞれが個性的で全く異なる音楽スタイルを貫くメンターから、技巧や感性、外面も内面も鍛えられ磨き上げられて、現在の橋本京子の音楽世界が構築された由。
聴衆のためではなく、音楽のための演奏・・・自らのテクニックをアピールするのではなく、自身がその楽曲の中に没入し、音楽と一体になることで聴衆を惹きつける。そのためには相当なスキルも身につけないといけない。技巧を顕示するのではなく、聴衆を魅了する音楽。
それが「内なる世界 ~ inner voice of the piano」ということか。技巧と感性、その塩梅が難しい。技巧だけでは演奏は成り立たない。感性だけでは演奏することさえ適わない。音楽の真髄を感じ取り、それを的確に表現する。ピアニストのみならず、音楽家がまず考えないといけない事項であるが、一番デリケートな事柄でもある。読解力と表現力、演奏家だけの問題ではありませんな。
 
もうひとつのクエスチョンは、「なぜピアニストだけが暗譜しなければならないのか!?」。
他の器楽演奏者は譜面台を立てて、楽譜を用意する。それに対してピアノ奏者は暗譜することを要求される。
クララ・シューマンが初めて、フランツ・リストが確立したこのスタイルは後々のピアニストを困惑させることになる。テクニックのひとつとして、譜面も、鍵盤さえも見ない演奏。
自作曲ならいざ知らず、それでミスが生じなければいいが、耳の肥えた今時のオーディエンスの前で間違いは犯せないのではないかと。ピアノには譜面立てがついているのだから、譜面を読むべき!?
 
15分のインターミッション。
後半はプレリュードを2題。
 
ワタシは不勉強で寺嶋陸也を存じ上げなかった。ましてや、今日演奏される「12の前奏曲集」は聴いたことがない。これはヨハン・ゼバスティアン・バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を範としリスペクトしたフレデリック・ショパン、さらにそれに倣ってセルゲイ・ラフマニノフクロード・ドビュッシーが物したのと同様に作られたものだと推察するが、ドビュッシーと比べても80年以上時の隔たりがある。鍵盤楽器奏者のバイブルとまで言われた「平均律クラヴィーア曲集」から300年の時を経て、それがどのように窯変しているのかが楽しみでもあり興味深いところ。
演奏されたのは12曲のうち、第1〜第5曲、第9曲。演奏が始まって思い出した。聴いたことがあるぞ。
ショパンラフマニノフドビュッシーとは異なる、ましてやJ.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」とは違う非常に現代的な風合い。機会があれば12曲通して聴いてみたい。
 
そして、クロード・ドビュッシー前奏曲集 第2巻 L.123」のうち、『第7曲』から『第12曲』。さして意味を持たないという表題がそれぞれ割り振られたプレリュードたちはやはりどこかそのタイトルを連想させる。表題に惑わされずに、ピアノの内なる声 〜 inner voice of the pianoを聴けということか。
演奏家は解釈によってその楽曲の曲想を読み解き演奏に臨み、聴衆はそれを分析しそこに表現されたものを見出そうとする。作曲家が伝えたいこと、それに弾き手の想いと聞き手の思いがぴったり重なった時に、作り手が残したかったジグソウパズルが綺麗に完成したと言えるのでしょうか。
 
今日も十分に堪能することが出来ました。
来月、7月19日(日)の「ワンコイン市民コンサート」は『岩井美子 ピアノリサイタル音のはこぶ私的世界」』。
プログラムは、
ブラームス「自作の主題による変奏曲 ニ長調 作品21-1」
シューマン 「クライスレリアーナ 作品16」
シューベルト 「ピアノソナタ ハ短調 D958」
となっています。
ピアニスティックな作品揃いで、さて、どんな世界が展開されるのか?!

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