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mixed mediaの時代、あるいは瓦礫の中から ~ ミケル・バルセロ展 [散歩・散走]

今日は大阪市北区中之島に在る国立国際美術館を訪ね、03月20日から05月30日までを会期として開催中の『ミケル・バルセロ展』を拝見いたします。


スペイン現代美術界の巨匠ミケル・バルセロの日本初となる大規模個展で、大阪の後、長崎、三重、東京へと回る巡回展。

ミケル・バルセロ(Miquel Barceló Artigues 1957年01月08日 -)はスペイン・マヨルカ島ファラニチュに生まれ、パルマ・デ・マヨルカの美術学校でドローイングと立体表現を学んだのち、1976年に前衛芸術家集団Taller Lunàticの活動に参加し、1982年に国際デヴュウを果たして以降、ヨーロッパやアメリカ、西アフリカを巡り、生地マヨルカとパリを拠点としながらマリやインドなどにもアトリエを構え、絵画を始め、彫刻、陶など幅広い芸術表現を巧みに自在に使い分け、マヨルカ島のパルマ大聖堂内礼拝堂や、スイス・ジュネーヴの国連本部の天井画など、壮大なプロジェクトの数々も実現させているアーティスト。

会場となる国立国際美術館のすぐお隣りには2022年02月のオープンに向けて「大阪と世界の近代・現代美術」をテーマに6,000点余の作品を所蔵する大阪中之島美術館が建設中で、いわゆるバブル期以降、日本各地に自治体や企業法人が運営する美術館も増えて、様々なアーティストの作品を眼にする機会が多くはなったのですが、どちらかというと、教科書に載るようなルネサンス~古典の大家であるとかバブルの頃に目ン玉飛び出るような落札額で競り落とされてニュースになったフランス近代絵画であるとか、広く知られた知名度の高い大芸術家の作品の方が集客力が高いからか優遇されちゃって、スペイン現代美術の最高峰といえど紹介されることが少なくて、ちょっと残念にも思えます。

スペインの近代から現代だけに絞っても、パブロ・ピカソやジョアン・ミロが居て、サルバドール・ダリが居て、もっと遡ったらエル・グレコ、ディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・デ・ゴヤがスペイン絵画三大巨匠とされる。これでは、現役の若手(?)が割り込む隙間がありませんな。

それに、近代~現代絵画というと、日本ではおフランス製のそれが人気とされるでしょ。
ピカソやフィンセント・ファン・ゴッホもかの地で活躍したとはいえそこに加えられて、抜きん出て捉えやすく眼にも優しい(?)印象派が主流みたいな扱いで、それ以降のちょっと難解にも見えるコンテンポラリー・アートを拝見出来る機会は何回とないのが現状。

とはいえ昨今は芸術品、美術品も経済的要素・・・オークションでの評価額で価値を判断されることが多くなるにつれ、高額査定を受ける作家、作品については至宝、国宝のように扱われ国有化あるいは自治体が購入するなどして公有化、政治的かつ経済的な取引品として外交や外貨獲得の材料とされ、古い作品だけでなく、現代美術が国を超えて巡回することも多くなり、有り難いことに日本に向けて世界中から集まってきているようにも感じられます。

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で、ようやくミケル・バルセロの初期から最新作までまるっとお目見え。
この催しにも後援、協賛、制作協力として、スペインとフランスの大使館、両国の国営文化センターが日本の新聞社や大手企業とともに名を連ねる。
芸術品にやたらお金や政治向きの臭いがついちゃうのはどうかとも思うのですが、きっちりビジネス化されて、こうして拝見する機会が得られるのですから、悪いことでもないのでしょう。

オープンの10分ほど前に美術館に到着。
昨年末から今年に掛けて年を跨いで催されていた前展覧会「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」の(2019年11月14日訪問)時にはズラッと行列が出来ていたのですが、今日はまだ閑散とした様子。
前回はレンブラントにフェルメール、ゴヤにグレコにベラスケス、ターナーがいて、アングル、コローにルノワール、ドガ、モネ、ファン・ゴッホ、ゴーガン、セザンヌなどなど錚々たるオールスターラインナップであるのに対して、今回はバルセロ独り。動員力では劣るかも知れないのですが、展示作品のインパクトなら全然負けていないというか、上回りそうで・・・。

先ずは、地下3Fまで降りて、現代スペイン芸術マエストロの回顧展。
展示室前のホワイエでお出迎えしてくれるのは、異様な形状のブロンズ像2体。「カピロテを被る雄山羊」と「マッチ棒」。
トンガリ帽子を被せられ項垂れる山羊さんは、懺悔をするのか、それとも道化、罵倒される犯罪者?
マッチ棒」ったって、ワタシの身長以上の大きさで、燃え残った燃えカス。
どちらも、何を意味するのか、そもそも深い意味なんて無いのかしら?

Ⅰ 絵画 Paintings
展示室に入ると、眼に飛び込んでくるのは大きなサイズ、200~300㎝ほどの絵画。1984年頃の初期の作品から2016年に描かれた最新のものまで約30点、画風は其々様々。
全てカンヴァスにミクストメディアで描かれてはいるのだけれど、近づいて観ると半立体?
海のスープ」は、スプーン代わり(?)にφ15㎝×150㎝くらいの木材が突き刺さっている。
下は熱い」では、何処と無く印象派めいた海面から顔を出すリアルな小魚(アジ?)たち。海面に見立てたカンヴァスから5㎝くらい飛び出しちゃっている。
恐れと震え」は大きなタコが画面いっぱいに足を広げているのだけれど、カンヴァス自体が波打っている。
青い作業着の自画像」なんて、『スターウォーズ・エピソード5 帝国の逆襲』でカーボン冷凍されちゃったハン・ソロみたくなってるし・・・。
ファラニチのジョルジョーネ」も、自身を謎に満ちたジョルジョーネに擬した自画像なのでしょうが、輪郭線もなく、陰影も曖昧で、おぼろげな貌に月桂冠を戴いて、下半身はケンタウロスみたいに馬になってるし、手にしたブラシは本物の刷毛を貼り付けちゃってる?! で、メロンはともかく、なんで海老?
(かなりぽっちゃり目だけど)どことなくモディリアーニ風な面貌の「いい年した子供(No1)」も多分、セルフ・ポートレイトなのでしょ。
一方で、「ルーヴル」や「亜鉛の白・弾丸の白」、「緑の地の盲人のための風景Ⅱ」、「マンダラ」などは静謐。どこかカラーフィールド・ペインティングのようでもあり、極端に抽象化された対象。
アンフォルメル、アール・ブリュット(アウトサイダー・アート)の影響も見受けられるし、キッチュでもあるのだけれど、禅の公案めいた奥深さも感じさせる。
いわゆるアヴァンギャルドで、同郷のピカソやミロ、アメリカ抽象表現主義(ニューヨーク派)のジャクソン・ポロックに近しいようでもあるし、ジャン=ミシェル・バスキアなどのグラフィティ・アートのようでもあるのだけど、作品によって画風は色々でなかなか正体を掴み切れないような・・・。
海辺の風景や闘牛場、魚介類や馬、動物や静物を描いて、躍動的なようで寧静、静穏、何がどうとは上手く説明出来ないのですが、日本画、大和絵や水墨画のような佇まいも覗かせる。如何にも、色んな意味で、ミクストメディア。
画面から飛び出すアジ(?)もカワイイし、「緑の地の盲人のための風景Ⅱ」、「マンダラ」もいいけれど、白と黒で描かれたルーヴルの回廊がワタシのツボにハマっちゃったみたいで、持って帰りたいと思っちゃったり・・・、大き過ぎて(303×210×5.5㎝)部屋には入らないし、買えるものでも無いでしょうが・・・。
そうそう、現存するコンテンポラリー・アーティストで唯一、ルーヴルで個展を開いたのもバルセロ。2004年にダンテ「神曲」の挿絵を描いた水彩画展。
そうそう、シャトー・ムートン・ロスチャイルドの2012年ヴィンテージのラベルもバルセロでしたね。買って♡とおねだりするにはビミョーなお値段。瓶だけでもいいから欲しいィィ。
そうそう、パリのロスチャイルド(ロチルド)家と言えば・・・、長くなるから辞めよ。

Ⅱ ブリーチ・ペインティング Bleach Paintings
自画像以外のポートレイト集はブリーチ・ペインティング作品。
全部パリで描いたのでしょうか。カンヴァス上で絵の具がブリーチされてレントゲン写真(死語?)みたくなったモノクロームの肖像は、アニェス・フェルダジャン=リュック・ナンシーフィリップ・パレーノフランソワ・アラールSatsuki小林康夫などなど10の顔。
」が一番優しい面差し、筆致に観えましたね、ええ。

Ⅲ 紙作品 Works on Paper
西アフリカ・マリ共和国にもアトリエを構えたバルセロ
海のないその国は灼熱の強風が吹き荒れる砂漠の地。かつてのフランス領スーダンで、公用語はフランス語。昨年軍事クーデターが起こっちゃって、ややこしいことになっている・・・というのはおいといて・・・。
街なかの市場や郊外の河畔に出掛けてはそこを行き交う少数民族、フラニ族やドゴン族の人々を描くのだけど、乾燥した強風に阻まれてカンヴァスは使えず、ミクストメディアと紙。ほぼ水彩画ですかね。
一日に30~50枚も描いたのだとか。風の隙をついて恐らく数分で仕上げたのでしょう、どこか古代遺跡の壁画のようにも見えて、プリミティヴィスム溢れる筆致は、多分眼を開けていられなくて、一瞬の知覚、瞬間的な視覚を頼りに盲目的に筆を走らせたのでしょう。
殆どが背景も無く、原色の衣装を纏って表情を持たない黒いシルエットのような人物像だけで、これが、ね。なかなかいい感じ。
このサイズなら部屋に飾れる?
大きな作品より露骨にエロとかグロとかも入って、マリでどんな刺激を受けたのでしょう。

Ⅳ スケッチブック Sketchbook
紙作品の延長・・・というか、こちらが多くのアイディアをストックする、彼の原点なのでしょう。1988年からつい最近のものまで、時系列に沿って、テーマごとに使い分けて、完成作品は即興的に見えるが、性格的にはなかなかマメで几帳面なお方なのでしょう。
膨大な数のスケッチブックが全部、彼のアトリエには保存されているのだとか。
アフリカ時代のものはシロアリに齧られた穴をそのまま活かしてシロアリの巣(?)を描いてみたり、それぞれにタイトルまで付いて、それ自体が画集のようでもあって、最新作は「COVIDのノート」(2020年)。関心事、興味を引くことは一切総て描きとめちゃうのでしょう。ここには9冊並び、一部は映像化されて、数ページ分だけ閲覧出来る仕掛け。

Ⅴ 陶 Ceramics
チリに居た頃、天候の具合で外出出来ない折りはアトリエに籠って、筆を持つだけでは飽き足らず、作陶していた由。
それぞれがそこそこの大きさで、動物(雄山羊、馬、カサゴの群れ、大蛸、珊瑚藻)だったり、アーティチョークや無花果、赤い花を象った植木鉢(?)だったり、ほとんどが大きな花瓶か壺のような形状なのだけど、幾つも穴が穿たれていて実用的ではありません。
一見カワイイものもあるのだけれど、よく見ればエロかったり、怪獣めいたトーテムがあったり、「先タライオティック時代」と如何にも古い時代の土器のようなものがあったり、意味深なタイトルも多く、「家族の肖像」は4つの壺が横繋がりにくっ付いて貫通するように穴が空けられて、「地球儀 No.3」は大陸がリアルなシャレコウベ(ドクロ)になっていたり、毒っ気もなかなか。

Ⅵ 彫刻 Scripture
ホワイエに居たようなブロンズ像は全部で5体。「山羊」と「マッチ棒」に加えて、「画家のペット」や「」、それに「盲人の本」。
リアルなようでいて、どこかヘン。
バルセロの彫刻には、鼻で倒立(?)する「ひっくり返った象」の像があって、巨体を鼻で支えながら四肢で器用にバランスを取る姿がカワイくて実物を観たかったのですが、巨きくて重いからか(ほぼ実物大)、パリからニューヨークまでは旅したのですが、日本までは来れなかったようで・・・。

現代アートというと禅問答や公案めいたものも多くあるのですが、バルセロの作品はそこまで小難しくもなく、適度にキッチュでポップなものもあり、様々な表現が渾然となっているところが面白いのでしょう。
ピカソやミロの時代、あるいはモダン・アートの最初期は従前のアカデミスム、伝統を破壊し、再構築する術を探っていました。その頃芸術の都であったパリには多くのismが勃興し、多くのistが群雄割拠。
音楽で謂うと、従来の和声理論を新解釈し、和声進行(コード進行)を念頭に置いたうえでのインプロビゼーション・・・といったところでしょうか。
その後、都がアメリカ・ニューヨークに遷都されちゃったら、コンテンポラリー。モダンなアーティストたちが壊しちゃった瓦礫の中から、眼についたもの、使えるもの、面白そうなもの、受けそうなもの、お宝になりそうなもの等々を発掘、洗浄漂白(ブリーチ)したり、投げ付けぶつけてみたり、絞ったり、滴らせたり、さらに砕いてみたり、無関係なもの同士を組み合わせてみたり、杓子定規に幾何学化してみたり。
あるいは、和声理論、コード進行より耳障り優先(?)、キャッチーでポップ。
あるいは、ピアノの鍵盤を拳骨で叩いちゃうパーカッシヴ奏法のような、管楽器で絶叫してみせるフリーキー・トーン的な、楽器でないものを使ってみたりコンピュータで音楽してみたり。
ミケル・バルセロの場合、具象的な対象をモティーフとしてテーマを作るのだけど、そこからの展開が瞬間芸的、瞬発的。主題から展開への移行が爆発的。それでいてしっかり終止感もあって纏まって見えるから、フリー・ジャズ的な現代美術とは一線を画するように感じます。その辺りはピカソやミロにも近いのでしょう。
単純なようで、解くに解けない多元連立方程式。
意味なんて考えちゃあいけないんです、多分。「Don't think, Feel!(考えるな、感じろ!)」ですか、ブルース・リー師匠のお言葉を思い出します、「燃えよ ドラゴン」的な。
表現の「意味」ではなく、せいぜい制作の「意図」を探るくらいに留めないといけないのでしょうね。なまじアタマがいいから、ついつい考えちゃうのよね。
以前拝見した「光彩のオーケストレーション」的なサム・フランシスもビビッと来ましたが、ミケル・バルセロにはビビビッと完全にシビレました。
会期は05月30日まであるので、もう一度(出来れば2度ほど)訪れようかと考えます。
ゾウさんの像は何処に行けば観られるんでしょうねェ??

さて、バルセロ展だけでお腹いっぱいなのですが、ひとつ上の階では国立国際美術館が所蔵する作品を展示した「コレクション3 見えるものと見えないもののあいだ - Between Visible and Invisible」が同時開催中。

昨年1月に突如発現した新型コロナウィルスの感染拡大。
ウィルスという「見えない」存在は、国内外で私たちが日常目にする(「見る」)生活に大きな影響を与え続け、これにより私たちは、少なからず可視、非可視ということを意識せざるをえない日々を過ごしている・・・というのが今回のコレクション展の趣旨。ちょっと難し気。
多くの作家たちが様々な形で取り組んできた可視、非可視というテーマを、「1 歴史/記憶/物語/時間」、「2 イメージの向こうに」と2つのセクションにまとめて展覧するエキシビション。

会場中に響く打撃音は、アンリ・サラの映像作品「アンサー・ミー」で叩かれるドラムスの音。それが繰り返される中、今回のテーマになった「見えないもの」を撮影する写真家、米田知子さんを始め、オスカー・トゥアゾンヤン・ヴォー田中敦子芥川(間所)紗織マイク・ケリーフェリックス・ゴンザレス=トレス杉本博司坂上チユキウテ・リンドナーカリン・ザンダー等々、写真、絵画、映像、彫刻、コラージュ、インスタレーション、エトセトラ。夫々がそれぞれの方法で、見えると見えないの線引きをしてみたり、見えてはいないものを炙り出してみたり、見えないはずのものを実態化してみようと試みたり、取り止めが無いようでいて、「見える」とはどういう状態、状況をいうのだろうと考えさせられてしまいます。

今回のコレクション展のタイトルは米田知子さんの作品からの引用。
著名人が遺したメガネ越しに見る、その人物に関わる書物(手紙、原稿、楽譜)のクローズアップ。ここに来るたび、何度か拝見はしているのですが、見飽きないほど面白い。
そのシリーズも13点が展示されて、ワタシ的には「マーラーの眼鏡 - 交響曲(未完成)第10番の楽譜を見る」がいいかなァ。
グスタフ・マーラーとその妻アルマと建築家ヴァルター・グローピウスの、三面記事か週刊誌ネタみたいなゲスい関係。その救いのない愛憎、グスタフにとっての危機的状況に対する愚痴が未完成となった「交響曲 第10番 嬰ヘ長調」のスケッチに書き込まれていて、多くの補筆作品を聴くよりグスタフの苦悩、嘆きの方が興味深かったりして、ジークムント・フロイトまで絡んだ、その見えてはいけないスキャンダルを米田知子さんは大きく引き伸ばしちゃったのね。

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そうそう、メガネといえば、先々週に検眼、検診して頂いて、先週鯖江にオーダーしていたのが今日出来上がって来てるはず。受け取りに行かなくちゃいけなかった。ランチを摂ったらダッシュで向かいます。

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