SSブログ

松花堂といえば・・・ [散歩・散走]

京都周辺も漸く紅葉が見頃を迎えて、Go To ナンチャラだとかGo To なんちゃらで賑わいを見せる一方、何やらコロナ・ウイルスの感染状況が増加傾向にあるとかで外出自粛を求められたり、どうせェゆうねん(失礼致しました。どうしろと仰るのですか)な三連休の中日。
ヒトと同じことはしたくない臍曲がりなうえ、興味もないからそのキャンペーンのカラクリをよく理解していないので、ヒトの音頭取りでは踊れない、躍らない。
そんな日曜日は、「きょうのお庭探訪(でしたっけ?)」と「きょうのミュージアム巡り」のコラボレーション複合企画として、混雑を極める京都市内を避けて八幡市にある松花堂庭園・美術館に向かいます。
今日のテーマは(もしかしたら)、紅葉ではなく、日本画でもなく、お弁当?


外出自粛と言われるなら大人しく蟄居していてもいいのだけれど、(ちょっと豪勢な)ランチを予約しちゃっているし、キャンセルするのも面倒で業腹。

というのも・・・、「松花堂」ですよ!!!!

松花堂」の名称はその字面や響きから店舗などの屋号のようにも思えるのですが、元祖(?)は石清水八幡宮の社僧、松花堂昭乗(1582年?月?日~1639年10月14日)であって、昭乗さんが晩年に結んだ草庵の名称が「松花堂」。

・・・ですが、「松花堂」と聞いて想起するのはかぶせ蓋のある30センチメートル四方くらいのお弁当箱に入った懐石料理風のセットメニュー(?)な「松花堂弁当」・・・ですよね?
花より団子。紅葉より行楽弁当・・・でしょ。ワタシだけ??
ググってみたら、出てくる画像はお弁当ばっかでしょ。

そのルーツを探るのが今日のミッション(あれッ、お庭探訪とミュージアム巡りは?)。

松花堂昭乗さんは阿闍梨位まで上がった真言密教の僧侶で、書道、絵画、茶道に堪能な文化人としても名を残し、大坂城落城の折りには狩野山楽を庇って徳川方と論判し、公卿近衞家と興ったばかりの尾張徳川家との仲を取り成し、将軍家ご上洛の準備に奔走するかと思えば、将軍家書道師範として江戸へ下向されて、上方の公卿連と江戸や尾張の武家衆の間をまさに東奔西走。小堀遠州や狩野探幽と絵筆を競い、公武の親交を深めるための大茶会をプロデュースしてみたり、八面六臂な活躍を通じて、公家や武家だけではなく、沢庵宗彭や江月宗玩、石川丈山、金森宗和、木下長嘯子、淀屋个庵、など僧俗に及ぶ多くの文人墨客と交わった傑物中の傑物、才器万能なお方。
文化・芸術から政治・経済にまで関わって、そのご活躍ぶりから、今も京都が京”都”としてあるのは昭乗さんのお陰ではないかと思えるほど。
それでいて、ご本人も生涯語らず、謎とされるのがそのご出自。
初め喜多川辰之助を名乗っていたのが、兄に従って興福寺別当一乗院門跡の坊官、中沼家に入り中沼式部となり、十二歳で近衛家に仕え、十七歳の頃にご出家。瀧本坊実乗に師事し、昭乗の名を頂く。
宮仕えからのことは幾つかの書物にも著されているが、それ以前のことは詳細不明。一説では豊臣秀次のご落胤とされ、一説には堺のご出身と伝わるも、それすら定かではなく、生まれ年さえ曖昧。
俗世を離れ仏弟子となったからは、実の親も出生地も、お誕生日さえお捨てになったということなのでしょう。師である実乗さんまでが口裏を合わせるように、拾って育てたなどと仰って、幼少期のことは謎のまま。
そのまま大河ストーリーとなりそうで、国営放送でドラマ化して頂きたいくらいの、彼に関するヒストリー。

実乗さんから譲られた瀧本坊石清水八幡宮境内に在った堂宇のひとつ。
それが焼失した際に住職の座は甥に譲り、新たに建てられた隠宅が「松花堂」で、明治維新後の神仏判然令(神仏分離令)に拠って現在の場所へ移築され、広大な回遊式のお庭(外園)を備えることとなる。

終の住処とされた小さなちいさな草庵は十尺(3.03メートル)角の方丈で、僅か二畳の広さ。そこに床の間とお仏壇、袋戸棚の下には丸炉が設えられて、土間にはおくどさんまで備わっているらしい。持仏堂であり、昭乗さんが起居されたリビングルームであり、客を招く茶席、サロンとして機能していたというからオドロキ。
二畳一間では、二人きりでも「密」になりそうだし、ワタシが大の字で寝ることも出来ず、キングサイズどころかダブルベッドも置けないじゃん・・・などと言ってはいけないのね。
ミニマルで機能的な住居。今後の参考に、是非拝見しておかなくては・・・。

松花堂庭園・美術館は京都府八幡市、石清水八幡宮のほど近く、元は神宮寺であった仏閣が幾つか残る辺りにあって、1891年に男山から移築された昭乗さん所縁の建物はそれを囲む小さな露地庭とともに「内園」となり、その周りは「外園」として広大な池泉回遊式庭園が形作られる。

・・・っと、ここまで、見てきたように長々と書き連ねましたが、実は、ね。

IMG_E3659.jpg
IMG_E3660.jpg

ワタシが庭園・美術館に着いたのが、開館となる09h00の10分ほど前。まずは美術館から廻って、庭園で時間調整して隣接する京都吉兆でランチにしようという計画。

ところが・・・、

駐車場はすんなり入れたが、09h00少し前になっても美術館に営業を始める気配が感じられない。通りがかった男性職員(?)に訊けば、程なく開館致しますとの応え。他に来館者も無いようで、過密を避けたら、あまりにも過疎・・・?!
美術館前のベンチのポツネンと座っているのもバカみたい。入り口の自動ドアは動いていたが、だからといって案内も請わずに美術館に侵入する訳にもいかず、庭園の入り口へ回ってみたのが09h05ごろ。
そちらの窓口には女性職員がお一人控えておられて、入場券の販売、受付も始められていたので、共通入場券を求めて、先に庭園を巡ることに。

ええ、予報以上に晴れ渡った空の下、陽射しは優しく風は適度にヒンヤリとして、ヒトの居ない、まだ誰も踏み荒らしていない朝のお庭を散策するのは心地いい・・・いいんですけど・・・。

松花堂庭園.jpg
IMG_E3662.jpg
IMG_E3664.jpg

エントランスは「外園」へと続いて、順路に従って、広さ約22,000平方メートルのお庭を回遊することになる。
サクラやモミジも見られるが、大半は竹や笹で、それらは約40種にものぼるそうで、それを利用したものか、其処此処には18種ほど編み方が異なる竹垣、竹囲いがあって、その意匠の違いを見るだけでも面白い。
樹々の根方は苔で覆われ、朝露と落ち葉が一面の緑にグラデーションとアクセントを付けて、如何にも日本庭園らしい様子。

IMG_E3665.jpg
IMG_E3667.jpg
IMG_E3668.jpg
IMG_E3663.jpg
IMG_E3666.jpg

その「外園」には、小川のように細長い形をした泉水が設けられ、そこには大きくて色鮮やかな鯉が揺蕩い水面に浮いた落ち葉を揺らす。
それに沿った石畳や飛び石伝い、適度な間隔を置いて3棟の茶室、「松隠」、「竹隠」、「梅隠」が配置されている。
一番大きな「松隠」は、小堀遠州が昭乗さんのために男山の山腹に拵えた茶室「閑雲軒」を、当時の起こし絵図を手掛かりに京都伝統建築技術協会理事でもあった、茶室・数寄屋建築研究家で建築家、日本建築史家の中村昌生氏が1970年に再建し、「竹隠」、「梅隠」も同様に、周りの作庭とともに中村氏がデザインした現代の建築物。
とはいえ、そこはそれ、「松花堂」や「松隠(閑雲軒)」の設えに合わせて、「梅隠」は千宗旦好みを写し、周囲の拵えも含め、時代的に統一感のあるお庭となっている。

IMG_E3669.jpg
IMG_E3672.jpg
IMG_E3675.jpg
IMG_E3676.jpg
IMG_E3677.jpg
IMG_E3674.jpg
IMG_E3673.jpg

3つの茶室はお茶会などでレンタル使用することが出来るそうで、「竹隠」では春と秋に日曜茶会が催されるとのことであったが、この時間ではまだ早いのか、このご時世のためか、今日は内部を覗き込めただけ(来客に備えて換気中?)。

ならば男山から移築された「松花堂」と「泉坊書院」を拝見しようと「内園」へ向かったところ・・・、

2018年6月に起こった大阪北部地震で被災し、その小さな建物内部を覗くどころか、「内園」に足を踏み入れることも出来ない状態!!
男山から移築後度々所有者、管理者が変わったというこの庭園の、「松花堂」と「泉坊書院」が京都府の指定文化財であり、それを含む周辺が国の史跡、国の名勝に指定されているとかで、現在庭園と美術館の管理を受け持つのは財団法人やわた市民文化事業団。そのためか、どこがどれだけ予算を出すかが決まらないのか、未だ復旧に至らず?
この「内園」の辺りは、移築前は「東車塚古墳」という墳丘であったらしく、古墳であることに気付かないまま庭園化、前方後円墳の後円部を築山にしちゃったそうで、もしかしたらまだ地下に石室でも残っているのでしょうか。それがために地盤ごと崩れてしまい、立ち入ることが出来ないのでしょうか?

IMG_E3671.jpg

んン・・・。いずれにしても、なんか、ねェ。庭園の約1/3が閉鎖中って・・・。
梅隠」前の蹲居にある水琴窟も、その微かな水音は小鳥の囀りと烏の鳴き声と落ち葉をお掃除する電動ブロワの騒音に邪魔されちゃって聴き取れないし、小さなストレスが積み重なるよう。

IMG_E3681.jpg
IMG_E3682.jpg
IMG_E3683.jpg
IMG_E3684.jpg
IMG_E3685.jpg
IMG_E3686.jpg
IMG_E3678.jpg

気を取り直して、「外園」回遊。
細長い枝だけになっている枝垂れ桜を通り過ぎ、「内園」を迂回するように庭園西側へ。
そこには南側のエントランスとは別に本来の玄関となる門構えが設えられているのだけれど、それも被災したのか、閉ざされているのはいいとして、少ォし傾いちゃっているような。

IMG_E3680.jpg
内側(手前左側がオミナエシ畑)

IMG_E3693.jpg
外側

IMG_E3687.jpg

その傍らにあるのが「女郎花塚」。
能楽の四番目物でもある謡曲『女郎花』、そのモデルとなった悲恋の夫婦(小野頼風とその妻)の物語。
謡曲に歌われるには「女塚」と「男塚」は男山山麓にあるとなっているが、妻を弔う石碑は庭園内に現存し、それがこの「女郎花塚」だとされて、物語の舞台となったことからここら一帯は男山と対になって八幡市八幡女郎花、なんとも趣きのある地名を与えられる。
自ら命を絶った妻に手向けるためか、その側(正門と石碑の間)には小さなオミナエシ畑もあるのだけれど、秋の七草のひとつではあるが、お花をつけるのは夏頃。
お能では、妻を葬ったところからオミナエシが咲いたとなっている。もしかして、この下には・・・。
万葉の頃から親しまれ、「万葉集」にも多く詠まれ、紫式部の「源氏物語」でも歌題または色名として度々登場する女郎花
その花の由来として作られた謡曲(エピソード)?

IMG_E3688.jpg
IMG_E3690.jpg
IMG_E3689.jpg
IMG_E3691.jpg
IMG_E3692.jpg

オミナエシ
には時季外れ。もうひとつ時季外れながら、同じく「万葉集」でも多く詠まれ、茶花としても用いられる椿。庭園南西部は「椿園」となっていて、300本以上植えられているが、お花を付けている枝はほとんど無くて、ちょっと寂しい見映えですかね。

IMG_E3661.jpg

椿園」を抜けると庭園出口で、元のエントランスへと還る。
そこを出て、美術館へ。
覗くと中に小さな人だかり、声も聞こえる。
入っていくと、記名して検温すると仰る。まァ、コロナ禍の最中で、それは他の美術館でもされていることと指示に従いチケットを提示したところ、それは1階の講堂で開催されている別のイベントの受付であったらしく、ワタシが観たいと思っていた企画展『近世画楽多』は地下の展示室が会場となっているとのこと。
教えられた通りに地下へ降りてみると、受付らしきところはあっても、人影はない。展示室もやたらに暗いような。そこに先客の女性が一人いるだけ。
ここまで来たら引き返せない。もぎってもらってないチケットを手に、地下の少し手狭な展示室で催される企画展『近世画楽多』を拝見する。

近世画楽多.jpg

近世画楽多』。
ワタシはそれを『近世画楽多(きんせいがらくた)』と読んじゃっていたのですが、『近世画楽多(きんせいがたのしみおおし)』と読むのが正しいようで。ニホンゴ、ムツカシスギテ、ワッカラナイデェス!!。
更に勘違いを重ねて、昭乗さん所縁のお品が展示されているのかと。ええ、キッチリ展示作品リストを見ていなかったのね。
書道、絵画、茶道をよくされた、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称ばれたお方ですから、書いたものとか、描いたものとか、お茶のお道具類が展示されているのかと思っちゃってたわけですな。
のちにお弁当箱に転用されることになる十字区切りの入った木箱も有るのかと早とちりしちゃってたわけですね。
手狭な展示室に展示作品も31点。それはいいとして、約半分が作者不詳で、大物の「二十四孝図屏風」は2隻対の片割れだけで、雲谷等益が筆を入れた「山水図襖」も半分の4面だけ、他にもちょっと残念なところがあって、少なからず拍子抜け。
まァ、昭乗さんや近衛信尹が認めた巻子があったり、烏丸光広や佐々木玄龍の手になる書簡があったり、酒井抱一の絵があったり、嫁入り用の「源氏物語」は美しい装丁だったし、それなりに見応えもあって、決して「ガラクタ」ではないのですが、なんか思てたのんとちゃう感じ。
展示室横のロビーでは昭乗さんに関する年表や(人物)関係図が展示されて、ヴィデオが流されていて、彼と彼を取り巻く情勢を学習出来たのが救い・・・ですか。

誰を責めるわけにも参りません。松花堂美術館ですから松花堂昭乗所縁の書画やお道具が展示されていると早合点しちゃったワタシが悪いのです。
内園」が被災したまま立ち入れないのも、作品目録も事前にウェブサイトで知ることが出来たのですが、「松花堂」から「松花堂弁当」に思いが跳んじゃったら、お腹いっぱいの前に頭がそのイメージでいっぱいになって、それに眼が眩んで他のことが霞んでしまいました。リサーチを怠っちゃったのね。

・・・という落胆は0.5秒くらいで処理してしまって、ランチのお時間になりました。

庭園入口と美術館に挟まれるように在るのが京都吉兆 松花堂店
創業者のご子息やご息女の婿で暖簾分けしてから色々あったあの「吉兆」グループの一翼、嵐山に本店を置く「京都吉兆」の一店舗。
数あるグループ店舗でも「松花堂弁当」が頂けるのは、昭乗さん所縁の地にある松花堂店の他は、何れも株式会社京都吉兆の店舗のみ。
混み合う時期でもあるらしく、ランチも要予約で、一週間ほど前でもギリギリセーフな感じ。お座敷やテーブル席はお子様連れが多く、七五三のお祝いで立て込んでいるのでしょう。庭園が見渡せる大きなガラス窓に面したお席を頂きます。

昭乗さんに因んで「松花堂弁当」を予約したのですが、ほかにも「松花堂ミニ懐石」やコース料理などもあって、それらはより豪華でリッチ、見た目もゴージャス。でも、多分、食べ切れない・・・はず。何せ、予約が取れたのは11h00から45分限定。最近いよいよ食が細くなって、まだお腹の空く時間でも無く、気忙しくて、お弁当くらいがころ加減。

IMG_E3694.jpg

まずはあられの入った食前茶を頂きながら、京都吉兆に伝わる「松花堂弁当」の由来に想いを巡らせて。

それによると、もともとは農家の種子入れだった器を昭乗さんが取り上げ、小物入れにしていたと伝わるのだとか。
昭和8年に「吉兆」の創業者、湯木貞一氏が松花堂所縁の旧跡での茶会に出向いた折り、 部屋の片隅に置かれた四角い器を見つけ、高さが3.5cmで田の字型の仕切りがあり、茶色で3ヶ所に墨絵が描がかれ、四方に金具が付いて、種子や薬入れ、小物入れ、煙草盆に使われていたそれを料理の器として使えないかとひとつ譲り受けて持ち帰り、サイズを工夫し、蓋を付け、お弁当箱のように仕上げたのが始まり。
四つの升目に各々異なる料理を配し、大寄せの茶会の点心に用いて、好評を得たのだという。
昭乗さんから随分と時代に開きがあって、湯木氏が持ち帰ったそれは昭乗好みと伝わる物を昭和の松花堂茶会で再現したものなのでしょう。サイズや形状も変わって、いわば吉兆オリジナル。
昭乗さんは、煙草盆には使っても、蓋が無いならお弁当箱としては用いなかったでしょうね。

どちらにしても、インターネットでググると山ほど出て来る「松花堂弁当」の元祖であることは疑う余地はなく、松花堂昭乗さんに一番近い「松花堂弁当」ではあるのでしょう。

と、程なくそのお弁当が眼の前に置かれて・・・。

IMG_E3695.jpg
IMG_E3696.jpg
IMG_E3697.jpg

四角いお盆の上に、「堂花松」と浮き彫りされた蓋つきのお弁当箱。その横に添えられるのはお造り用のおしょゆう。手前には箸置きと割り箸。
蓋を取ると、木箱の中は十字の仕切りで四つに区切られ、更にその中にはお皿や籠、小さな器が詰め込まれ、お造りに焼き魚、煮物に和え物。
んン・・・、器と食材の重量比は5:1・・・くらい? 事によると、8:1? これなら「ミニ懐石」でも食べられたか?

IMG_E3698.jpg
IMG_E3699.jpg

しかし、季節感のある椀に入った、蟹真薯と王茸のお吸い物とご飯、香の物、お雑魚の佃煮が別に有って、食べ終えてみるとお腹いっぱいを通り越しているような。白ご飯とは別に、籠の中に〆鯖の押し寿司が有って(多分)それが駄目押し。
白ご飯はおかわり出来るようなのですが、無理ムリ、これ以上食べると危険がアブナイ。炊きたてらしい、ほくほくのご飯も美味しかったのですが、むしろ不要なほどお弁当箱の中の充実ぶり。
どれもが極薄味で、地産地消の素材のお味がそのまま感じられる。舌の感度を試されているようでもあって、塩っぱいのは苦手ですし、お造り用のおしょゆうも殆ど使いませんでした。

IMG_E3701.jpg

お腹いっぱい、食べられないと言いながら、最後にサーヴされたデザートは別腹。
これが、ねェ。「かぶら()のアイス」と「お抹茶のゼリー」と「胡桃の入ったケーキ」の三種盛り・・・は見た目にも可愛らしく・・・かいらし過ぎて、写真だとデザート・スプーンがカレー用のスプーンに見えるほど!? 舞妓さんのおちょぼ口仕様? ひと口ずつの試供品?
「アイス」だけでも10人前ほど追加オーダー出来ないかしらン?

と、ひと品ずつ、ひと口ずつ味わっているうちに、持ち時間の45分が終了。
まずまず堪能出来ました。

IMG_E3702.jpg
IMG_E3703.jpg
IMG_E3704.jpg
IMG_E3705.jpg

窓ガラスの外は料亭専用のお庭(?)になっていて、泉水では誰方(?)が対岸の亀を釣っている? こうした故事が何かありましたっけ??

IMG_E3707.jpg
IMG_E3708.jpg
IMG_E3709.jpg

で、時間はようやく正午になろうかという頃。
せっかくですから元の松花堂跡を訪ね、「女郎花」の相方「男塚」を探しに行きましょうか。
松花堂庭園・美術館から東高野街道を北上し、岩清水八幡宮のある男山

IMG_E3715.jpg
石清水八幡宮・一ノ鳥居

IMG_E3713.jpg
IMG_E3714.jpg

八幡宮
の駐車場から見上げると、紅葉でもなく、深い緑というか黒木に囲まれ黒々と。
腹ごなしに石段を登りかけたのですが、松花堂跡へ辿り着く前にドロップアウト。お腹が重すぎるうえに、なにせハーレムパンツにミュール履き、登山や石段どころか、お庭の飛び石が精いっぱいな感じの出で立ち。お山を舐めるなよとお叱りを頂戴しそうな拵えで。
頭上を行くケーブルカーで山頂まで登ってしまっても仕方ないでしょうし。

IMG_E3710.jpg
IMG_E3711.jpg

昨夜から今朝方に掛けて散り落ちたのでしょうか。足元には天然イチョウ100%な屋外専用カーペット。朝露に濡れて、腰を下ろすことは叶わず。もう秋もお仕舞いでしょうか。

山全体が紅色や黄金色に染まる景色は圧巻なのでしょう。
自然は畏怖すべきものでピクチャレスクという発想が無かった頃に、それを借景として、枯山水の向こうにそれを模して鬱蒼たる植樹を設えた大寺院の庭園も見事ではあるのでしょう。
それらをギュッと濃縮させて、僅かな桜や椿、ひと枝の椛に季節感を託し、その風情が微かに移ろっていく様を楽しむ露地庭の佇まいが一番共感出来るようにも感じます。
小さな竹林に拠って外界と隔てられた侘び寂びの境地は小さな宇宙でもあって、春には桜の花びらが舞い込み、椿の花が落ちた後には若竹が空へ至るのを眺め、秋には色づいた紅葉が風に踊る。小さな茶室の小さな窓から見える世界は季節的なサプライズが仕掛けられた小さなちいさなテーマパーク、レジャーランドでもあったのでしょうか。
風の声が収まり、小鳥が鳴りを潜め、蝉時雨が止んだ瞬間に、微かに聴こえる水琴窟の涼しげな音色。
多くを望まず、足りるを識る・・・を学んだように思います。肝心なものは(あまり)拝見出来なかったのですが・・・。

IMG_E3716.jpg
IMG_E3717.jpg
IMG_E3720.jpg
IMG_E3721.jpg

京へ至る街道をそのまま北上し、桂川、宇治川、木津川が出会って淀川になる辺り、淀川河川公園背割堤地区へ。
ここは桜の名所で、約1,400メートルに渡って、約220本のソメイヨシノが並ぶ。花時でないのは無論のこと、その葉が赤く色づいているのを拝見しようという魂胆。
春は花が淡い薄い紅色で、夏は若緑、秋の終わりには紅く染まるサクラの葉。それもグラデーションして、深緋(こきひ・ふかひ・こきあけ)色、茜色、臙脂色。四位の色目。

IMG_E3719.jpg
IMG_E3722.jpg

そうそう、背割堤の入り口辺りでは自転車試乗会が開催されていて、河川敷が試走場に当てられて。楽しそう、面白そうではあるけれど、なにせハーレムパンツにミュール履き、自転車に乗られへん!!!!

ワタシが侘び寂びの心境に至るには、あと100年くらい必要でしょう。
いっそ禅院に籠って座禅でも組んでみようかとも考える。外遊は辞め、Stay Home、本心に還る修行でも始めるべきなのでしょうが・・・。

で、来週はお出掛け出来るのでしょうか、ねェ。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント