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癒しの庭あるいはヒーリング・フラワーズ [散歩・散走]

「きょうの夏の庭シリーズ」・・・でしたっけ?
今週も涼を求めてお庭の散策。
このところ、ちょっと思うところあって、神社仏閣のお庭を訪ね歩いているのですが、その真の目的はまだ明かせません。不敬かもしれませんが、特に信仰を持たないので、熱心な参拝者というわけでもないんです。祈り事など持たないですし。
ひとまずは、夏の庭に咲くお花がお目当てということにしておいて。


暦の上に秋が立ってもまだまだ残暑厳しき折り、水辺の景色が気分でしょうから、今日は京都市内、二箇所のお庭の池に咲く睡蓮を訪ねます。
まずは、東本願寺の飛地境内、渉成園(しょうせいえん)へ。

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光源氏
のモデルともいわれる源融
嵯峨天皇の第12子として生まれた彼が嵯峨源氏融流初代として重職を歴任するに、その住まいはというと、奥州、塩釜の風景を模して作庭した六条河原院で、その大邸宅も光源氏が暮らした六条院のモデルと言われる。
超々々広大なお庭に難波の海(大阪湾)から大量の汐を運ばせて製塩を愉しんでいたというのだから、やんごとなき殿上人の考える遊びはワタシら下々の者からは想像することも出来ませんな。もしかしたら、製塩業を営んで京の食卓、胃袋をモノポリーしちゃおうという算段だったのでしょうか?
さんは陸奥出羽按察使も兼任されておられて、一説には塩釜に邸宅を持っていたともされるのだが、その監督業は現地に委託し、ご本人は遠路奥州まで出向くことはなかったとか。で、雰囲気だけでも味わおうと京の真ん中に大量の汐を持ち込んじゃった・・・とか。それを風流というのでしょうか。
それがために、この辺り一帯の地名は塩竈町であったり、塩小路通であったり、この暑い時期には何やらノドが乾いてしまいそうなショッパイ感じの故地となり。

陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにしわれならなくに」というのが、『古今和歌集』にある河原左大臣ことさんのお歌。陸奥の風景ではなく、陸奥で織られた「しのぶもじずり」の模様のように心が乱れると詠っておられる。現地で調達し持ち帰った摺り衣なのでしょうか。それとも京に宛てて献上されてきた物か。

その真相はともかくとして、

河原院さん亡き後息子のさんに相続されて、その後宇多天皇に献上されて紆余曲折、時代がうんと下って江戸期に入り、1641(寛永18)年に徳川家光から東本願寺に寄進されて、飛地境内とされた。
源家の御邸宅であった頃よりは幾分か手狭になったとはいえ、ほぼ200メートル四方で、面積は3.4ヘクタール(34,000平方メートル)。周囲に枳殻(カラタチ)が植えられていたこともあって、中国六朝時代の詩編に肖り「枳殻邸(きこくてい)」とも通称される。
一時は東本願寺の学寮となっていた時代もあるが、主に宗教施設としてより門首の隠退所や外賓の接遇所として機能していたという「枳殻邸」。今は一般公開されて、お東さんのイベント事の会場としても利用されている。

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敷地の約1/6が広大な「印月池(いんげつち)」で占められ、その周りには瀟洒な殿舎が幾つも配置され、それらは、大書院となる「閬風亭(ろうふうてい)」、池に面した「臨池亭(りんちてい)」と「滴翠軒(てきすいけん)」。お庭の各所に配置された4つの茶室は「漱枕居(そうちんきょ)」、「縮遠亭(しゅくえんてい)」、「代笠席(たいりつせき)」、「盧庵(ろあん)」と名付けられ、池に架かる木製の橋は「侵雪橋(しんせつきょう)」。もうひとつの橋は檜皮葺きの屋根を戴く「回棹廊(かいとうろう)」。その他にも、持仏堂となる「園林堂(おんりんどう)」、楼門造りの「傍花閣(ぼうかかく)」など、ここを訪れた頼山陽が「渉成園十三景」と選んだ建築物がそこかしこ。
お庭こそ作庭時の姿を残しつつも、建造物の多くは慶応元年から明治初期までに再建された物であるとのこと。
それらの合間を埋めるように、源融ゆかりの石塔があり、塩釜の手水鉢碧玉の石幢盧庵の春日燈篭などの名物・景物が置かれ、お茶のための井戸、水源として各茶室の傍には、亀の甲の井戸獅子吼、かつての名残りとして塩釜と呼ばれる源泉があって、創建時は高瀬川から水を引き、今は琵琶湖疏水から流れを引き込む。
各殿舎の中には立ち入れないが、軒下に立ち、そこからお庭を望んでいるだけでもそれなりの風情が感じられる。木立の向こうに鉄筋コンクリート製の近代建築が見えちゃったり、京都タワーまで眺望出来たりするのですが、それでも十分にフォトジェニックで、春には桜、秋は紅葉も楽しめ、今は池に浮かぶ睡蓮とその上に掛かる百日紅
スイレンの時期とはいえ、お花以外に目を惹くものが多過ぎて、さすがのクロード・モネでもこのお庭は描けないのではと思っちゃう。

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09:00の開園を待ちわびての入園となって、ワタシ以外にヒトの姿はなく、長閑な池の畔にはヒドリガモが居たり、アオサギが日光浴をしていたり、一羽のサギは茶室「漱枕居」の軒先に端座して蓮華咲く池に向かってなにやら瞑想するふうにも見えて、朝のお務めで御念仏でも唱えているのでしょうか。

先達て訪ねた宝厳院の「獅子吼の庭」や天龍寺のお庭とはまた違った様式で、ドグマを立体化したような総合的デザインこそ見出せないものの、シンプルでいてそれぞれに趣のある殿舎に景物、それら一つひとつに付けられた名称がキーワードなのでしょうか。
総合演出で教義を示す禅寺に対して、こちらは賓客を接待するためのサロンとして機能するように、その場その場、もてなす客や状況に応じて使い分けられるような設えにされていたのでしょう。それぞれの名称は故事や詩篇からの引用で、それを話題にする文化サロンだったのでしょうね。
自然と人工の調和。ワタシは都会生まれの都会育ちなもので、大自然は少し苦手。怖いというか、不安が募る。都会の中に在って、こうしてヒトの手で作られた擬似的景観の方が異世界感があって、乾いた都会のオアシスのようでもあって、そこで水の流れと花の色香に浸っている方が心安らぐような気がします。

でも、ね。
二日ばかり前に「立秋」になって、その初候「涼風至(すづかぜいたる)」が今日現在の時候・・・のはず。
池へと注ぐ水が涼しげな音を立て、樹々の枝を抜けてその上を渡る風は幾分か清涼に感じるのですが、日向に出ると茹だっちゃいそうな陽射しで、アオサギのように端座瞑想してられませんて。熱中症になるのではないか?!

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さんのお歌以上に、京の六条で、乱れ、怖ろしいといえば、前東宮の妃で六条御息所と呼ばれるお方。
世が世ならば皇太子妃、女性の最高位まで上れたかも知れないのが前東宮(前坊)が若くして薨御されたばっかりに、僅か二十歳で女寡となり、授かった女宮共々宮中を離れ六条邸で侘しい暮らし。そのお住いがここ、六条京極辺りとされて、彼女の死後そのお屋敷は光源氏によって広大な六条院の一部となったのでしたね。
先に訪ねた宇治では浮舟さん。彼女の場合は、実父(宇治八の宮・光源氏の弟)に認知されずに育ち、母の再婚によって継父となった常陸介からは疎んじられ、薫大将匂宮からはちょっと軽んじたような扱いを受けて、東国育ちとはいえ和歌を嗜む教養もありながら、二人からは歌を贈られることもなく。
対して六条御息所は、前東宮妃という自尊心がくん(年下!!)と心安く打ち解け合う事を許さず、未亡人で一児の母とはいえまだ女の盛りを過ぎたとは認めたくない女心、それゆえか徐々に疎遠になっていく光の君を追い求めてしまう自分が惨めにも思え、葵の上やその他、さんに関わる女性たちへの嫉妬心も募り、一番の気掛かりは娘の行く末。斎宮に選ばれて、その後は・・・。後見のない身の上では肩身の狭い思いをしないといけないと気遣ってしまう。
色好みなくんのことだから、今はワタクシを慕ってくれても、老いていく我が身に引き換えこれから華開くように成長していく娘に心を移すに違いないと早手回しに考えちゃったのでしょう。他の女性たちはともかく、我が娘に悋気を募らせてしまう自分の浅ましさに気づいて、一層狂おしい思いをされていたのでしょう。
高貴な方のご寵愛を受け、女宮まで授かった後に死別。東宮への未練が矜持となってを拒むうちに彼の心は悪阻に苦しむさんへと移ろって、独り寝の寂しさが募り、詰まるところ、さんを始めの正妻たちを恨めしく思ってしまう。そんな自分が余計に切なくもあり心苦しい思いをされたのでしょう。気高さ故の哀れ。
気を病んで、恐らく自律神経の乱れから心身が傷み、命を縮めてしまったのでしょう、多分。死に際しに対して、娘にちょっかい出したら祟るぞ、化けて出るぞ・・・とそこまでは仰ってないが、キツく釘をさすあたり、やはり娘を思う母としての感情が一番勝っていたのかしらン。それとも、死に臨んでも、娘に対する嫉妬心。
十六歳で東宮妃となった六条さん。美貌とともに気品と知識、教養も具わっていたのでしょう。光源氏と取り交わす多くの文にその都度凝った歌を添えておられる。
そのひとつが、

袖ぬるるこひぢとかつは知りながらおりたつ田子のみづからぞ憂き

こひぢは、恋路でもあり、泥、ぬかるみを意味する古語。
みづからは、自らと水から。
憂きは浮きとの掛詞。
“袖も涙で濡らしてしまう恋路”は定型的に多用される言い回しなのですが、それに続くのは掛詞、掛け言葉で、そのダブルミーニングが六条さんの二面性、多面性を表現しているようにも感じられます。受け入れたいけど、受け入れられない。

そんな六条御息所をお花に例えたら、ひぢ(泥)に根を張り、水から浮き出た、高貴で清浄、麗しい蓮華・・・ではないでしょうか(個人的感想です)。
バラは バラは 気高くゥ咲ァいィィてェ~♪としたいところですが、この時代の日本に咲いていた薔薇科の植物といえば野茨(ノイバラ)や浜梨(ハマナシ)など。「うばら」や「うまら」と呼ばれたそれら日本原産のバラがあるにはあるのですが、いかにも野草的で、どちらかというとゴージャスではなくカワイイ系。
前回の「宇治編」でも触れたハス。他の植物を蹴散らすほどに根を広げ大きな葉を幾つも繁茂させて、丈高い花茎に大きく美しい花を掲げる。「泥中の蓮」、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」。苦しみの中にあってもプライドを保って、美しく気高くあろうとされた六条さんのイメージ。
極楽浄土にも咲くという蓮華ですから霊力が強くて、葵の上紫の上女三宮などがそのパワーに中てられちゃったのでしょう。情の強い人ではあり、死してなお影響力をもつインフルエンサーでもあったのでしょうか。
六条さんは、能曲や謡曲では生霊、亡霊として扱われるのですが、さんやさんからすれば憧れのおねーさまで、時として彼女たちの心を乱してしまうくらいに、その印象がいつまでも彼女たちの胸中に残っていたのでしょう、多分。尊敬はされるけど、時に煙たがられて恐れられる御局さま(OLじゃないって?!)?
その魂を鎮めるために娘、秋好中宮が追善供養を執り行ったのが、それも六条院、この辺りだったのでしょうか。

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・・・と六条の人に心寄せていると、不意に強い視線を感じ、もしやまだ成仏なさらずに柳の陰にでもお立ちなのでは・・・?! (実際には柳の木はありません)

視線の主はアオサギ。脅かすんじゃない!!

そうそう、テーマは「夏の庭の池の花」でしたね。
渉成園(枳殻邸)の池泉回遊式庭園の中心をなす「印月池」。
東山から上る月影を水面に映して美しいことから命名されたのだとか。お庭の1/6を占め、約1,700坪(5,620平方メートル)の大きさ。かつては茶室を巡るために舟まで浮かべていたという。
池の真ん中辺りに浮かぶ中島「五松塢(ごしょうう)」、そこに架かる「侵雪橋」で区切られた東半分を覆い尽くすほどに繁茂するのがスイレン

化学が進んだ今日の生物学の世界では、やれ遺伝子だ、DNAだと解析が緻密になり分類がより細分化されて、ハススイレンは似ているけれど全く別の科になってしまって、この歳になっても理科や社会科は絶えず勉強し直さないといけませんな、他の教科も大事やけど。
お釈迦さまの時代には「蓮華」とひと括り。清らかに大きな花を水面に捧げる、極楽浄土に咲くお花。
ハスが午前中に咲いて午後には閉じてしまうのに対して、スイレンは14時ごろ、「未(ひつじ)の刻」に咲いて夕方には閉じてしまうから「未草(ヒツジグサ)」、眠るハスで「睡蓮」と呼ばれる。
とはいえ、実際には朝から咲いている。
旧暦から新暦、十二時辰制から24時間制に移行して時差ボケしちゃった? まァ、ねェ。「立秋涼風至」といった気分すら味わえないくらい季節感もズレてきちゃってますし・・・。

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こちらは「園林堂」脇にあるハス
もう花弁は全て落ちて、残った花托も茶色く変色して、夏の果て、夏の名残りを示している。
池に咲く真白いスイレンと枯れ落ちたハス秋好中宮六条御息所と言ってしまうと、極端に過ぎて、六条さんに失礼ですが、独り老いていく我が身と美しく成長していく我が娘、それにさんやさんと見比べて、そう感じておられたのかもしれませんねェ。

と哀れを催すには暑過ぎて、恐らく気温は体温に迫るか上回る。スイレン鑑賞のつもりが『源氏物語』の世界に浸っちゃったのもクラクラするような日差しがみせた幻影?
このままでは現実世界に戻れない?!

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ねじりまんぽ(蹴上トンネル)」を抜けて、次の目的地に進みます。

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京都の禅寺を代表し、京都五山と鎌倉五山のさらに上となる別格寺院は臨済宗大本山南禅寺こと瑞龍山太平興国南禅禅寺。その塔頭のひとつ、天授庵
1291(正応4)年に創建された南禅寺には当初塔頭が無く、1339(延元4)年に南禅寺第十五世、虎関師錬が勅許を得て建立されたのが瑞龍山天授庵。一時衰退したのを細川幽斎が1602(慶長7)年に再興。
方丈や小堀遠州のアイディアによる幾何学的でモダンなデザインの前庭(東庭)などは再建時のものとなるが、より広大な書院南庭は創建時の面影を留める池泉回遊式庭園
そこに咲くスイレンを拝見いたします。

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700年という時間がそうさせるのか、深山幽谷、仙境に在るような静けさで夏の名残りの陽射しさえ寄せ付けないように感じます。
もう少し季節が進めば樹々が紅葉し、お庭一面が赤く染まるのでしょうが、今はまだ青々と輝いて。こちらもやはり琵琶湖疏水から注ぎ込む水の流れが涼感を誘って、ひと時暑さを忘れるような。
光を遮るほど繁った大樹と開けた水面でそれを照り返す水生植物が作り出すコントラスト。ガラスのような水面に反射する木洩れ陽。青もみじスイレンと、長い時を経て庭を覆い尽くす苔と地衣類。歌心、せめて文才があればこの情緒を表現出来るのでしょうが、とりあえず筆舌に尽くし難いと誤魔化しておきましょう。モネが思い描くジャポニスムよりもっともっと深いところに根ざしたような拵え。絵にも描けない美しさ(竜宮城じゃないって)?

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お庭の静けさ、蓮華の清浄さにココロ洗われるような気がして、信仰心を持たないワタシには堂宇に在るお仏像や有難い経文より癒される・・・というと仏罰を頂戴しちゃいますか? でも実際、仏前に手を合わせるより、スタンプ・ラリー的なブームとなって効果・効能の知れない御朱印収集より、こうした人工の異界に身を置いて物思いに耽っている方が浄化されるように感じられます。
パニックに至りかねないコロナ禍の影響で、インバウンドや「そうだ、京都へ行こう」な方々が来られなくなって、喧騒の巷は活気を無くし一抹の寂しさこそあるものの、その不安を払拭したいがための「きょうの夏の庭巡礼」。不要不急の外出は控えるべきでしょうが、こういう時こそ憂いを払ってココロ穏やかにあるべきだと考えます。免疫力が落ちちゃうし。

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心が休まった後はぶんぱく京都文化博物館内で冷たい蕎麦を手繰って、地酒を何種類も試飲させて頂いて、ひやしあめのゼリーが入った冷やし飴のかき氷まで頂いて、すっかりいい心持ち。
花より団子(じゃないけど)、美味しいものが何よりの癒しやねというエンディング。それでいいのか?!

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