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夏のお庭と、応挙と芦雪 [散歩・散走]

コロナ禍による外出自粛要請が解除されたかと思えばそれに合わせてように梅雨入りでポタリング、自転車散走が出来そうにない。当ブログでも、「主にポタ ・レポ」を標榜しながら、そうした記事は長く滞ったまま。
ライヴコンサートや演奏会はまだまだ開催されそうになく、美術館や映画館は換気対策、感染対策が若干不安ではある。外出自粛要請はともかく、気分の乗らない時に無理やり出掛けたり、ましてやそれが自転車でとなるとアクシデントに繋がりかねない。
それでネタ切れになることも無いのだけれど、自宅で過ごす時間が増え、サブスクリプションでヴィデオを観たり、それから刺激を受けて創作にハマったりしていたら、いよいよブログを書く暇も無くなって・・・。


どうも外出行動がないと書き辛い・・・というわけでもないのですが、そうしないと書く気が起こらないのだから仕方ない。事務的なノルマではなく、刺激的なインプットがあってのアウトプット。
雨季に籠っていては、身体が錆びる、ますます書く気力が失せる。出掛ける先が限られる中、せめてこうした時節柄、多少なりとも眼に映える写真を添えたくて、お花を主たる目当てとして雨催いの京都をカメラ片手に散策してみようと重い腰を挙げてみる。

で、今日伺うのは嵐山方面。
京都市内からその近隣には社寺、神社仏閣が数多あって、それらのうちの幾つかは花の名所としても知られ、春から夏はまさに百花繚乱、秋には紅葉も人出を呼んで、季節に関わらず賑わいを見せる。昨今はインバウンド、海外からの観光者も増えて、どうかすると自転車やクルマで走り抜けるのも困難になるほど。人気のスポットをのんびりと散策しようと思えば、こうして人出が途切れた時しかないのではないかと思えるほど。
とはいえ、百花繚乱も出そびれているうちに夏の花。ハナショウブやアジサイから、キキョウ、ハス、スイレンなどということになるが、花の命は短くて、行こうと言っているうちに見頃を終えてしまいそう。
「花の寺」や桜が映える庭園、紅葉の名所は幾つもあって、「あじさい寺」を名乗る所は他にも在るが、コロナ禍で人の途絶えた観光スポット嵐山。それもお花だけでなく、アート鑑賞もセットにしちゃおうという欲張りプラン。

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朝早いうちに中之島界隈をぶらぶらと。
時間的に、インバウンドな方々や「そうだ、京都へ行こう」なヒトたちも出逢わない。といって、ジョギングやランニング、散歩しているらしい人影も少なく、行き交うクルマも疎らで、曇り空の下、渡月橋もひっそりとした佇まい。ただ、ここ暫くの梅雨とも思えぬ豪雨のあと、上流の何処に降った雨なのか、橋の下の桂川を濁流となって轟々と流れ去る。
それがために、川面に係留されていたであろう屋形船も陸に揚げられ縦列駐車ならぬ縦列駐船? 駐車違反には・・・??
そうした常ならぬ風景、雰囲気とウイルス禍の風評とで遊んでいてもいいのかしらとも思うのですが、静かな情景を独り占めにしようと思えばこうした時でないと望めない。

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で、川沿いの漫ろ歩きで時間調整した後は、最初の目的地、臨済宗天龍寺派大本山天龍寺の塔頭寺院、大亀山 宝厳院、そこに設えられたお庭、「獅子吼の庭」を拝見します。
週末だけ開かれた”Special Viewing For A Limited Time Only”というお庭ですから、なるたけヒトの少ない時に独占してよりスペシャル感を高めたいでしょ。

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獅子吼」は”Lion barking”ではなく、「仏が説法する」という意味であるらしい。百獣の王が他のケモノを恐れさせるように、悪魔・外道までもを恐れ従わせるような仏の大演説。
室町時代に中国に二度渡った禅僧、策彦周良禅師によって作庭された借景回遊式庭園で、砂利が敷き詰められた回遊通路以外はアンジュレーションが激しく、なだらかな起伏の表面を一層滑かに見せるように苔が覆い、幾種類もの樹々があるがままに枝を拡げ、合間には生き物に見立てられた巨石が配置されて、秋には紅葉が高揚感を齎らすお庭もこの季節は青もみじと苔。紅や黄に染まる前の若い青翠。桜の頃は華やかで、秋には紅葉が艶やかなのでしょうが、緑清しいこの時期のこの時間帯は人影少なく、一層ひっそりと清しいように感じられます。

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五山文学
の秀英と称えられる策彦周良の作庭は「龍門瀑」を主題とするとのことで、それは中国夏朝の皇帝・禹がその治水事業において山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いて出来た急流の有様を模し、「登龍門」の由来である「鯉が三段の滝を登って将に龍に化す様」を現しているのだとか。
視覚芸術で、空間芸術のようでもあり時間芸術な一面もあり、「登竜門」を想定するヴァーチャルリアリティでもあるのでしょうが、禅の教えを識らず、禅那、禅定を知らぬワタシには説明なしにそれを理解するのは難しい?!
だって、ね。
玄関門を入った先の枯山水には「三尊石」の前に叩頭く「獣石群」があって、歩き進むと「瀧門瀑」、その先には巨きな「獅子岩」。全てが石で拵えられた見立ての世界。瀧こそ形作られているとはいえ、水の流れに鯉も龍も居ないじゃん!! 鯉→龍を小動物→巨獅子とアレンジメントしちゃったン?! 「獅子岩」がいかにも大ライオンっぽいのでそれを活かしたかったのでしょう、多分。
大きな石(岩・鉱物)には強い魂が宿っている・・・というと、仏教というより、古代信仰か神道系の発想っぽくて、恐らく、(形状からの見立ても大切ですが、)季節ごとに変化する植物と違って永遠不変、魂だかソウル、スピリットだかの不変性を表現するのに都合がいいのでしょうね。輪廻転生を示す動植物と解脱を現す鉱物。
不変とはいえ、雨風に多少なりとも削られて、苔むして、角の取れた巨石は心優しきジャイアント・ライオン。大きな慈愛を宿しているように感じました。


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「三尊石(中央が中尊石で、左右が脇侍石)」とそれを伏し拝む「獣石群」

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これは腹這う「亀石」

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巨きな大きな「獅子岩」を三方向から

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周良
さんがデザインしてから随分と時間は経ち、木々の枝ぶりも変わっちゃったのでしょうが、そうしたストーリー性を度外視しても、頭上の青もみじ、眼下の苔が、青一色というより微妙な色合いの濃淡、さらには雨上がりの潤沢さが艶を与え、光と陰とのコントラストからハーモニックな色彩にも観えて、時を経たからこそオスカー・ワイルドが言うような「自然は芸術を模倣する」風にも見えるのかもしれません。アリストテレスが説いた「芸術は自然を模倣する」。さて、どっちがどっちなんでしょう。
借景式庭園の背景となる嵐山の風景。自然と模倣というと古代ギリシアのイデア論的になりそうですが、人工物である庭園をそこに映えるように拵えるのではなく、窓から望める自然の風景がより風光明媚に映えるように庭を整えたようにも思えます。

ラテン語の「ars(アルス)」、英語の「art(アート)」、フランス語の「art(アール)」の語源はギリシア語の「τεχνη techné(テクネー)」で、それは「人工物」、あるいは医学や工学など「技術(technic)」とも繋がる言葉。周良さんがデザインされたお庭も禅の教えや五山文学を可視化、立体視せしめようとした、ある種リベラル・アーツ。それが時間とともに変化し自然に還りつつも、手入れをされて今に至る。
欲に塗れた凡人のワタシが悟り、真理を体得するまでは到底至りませんが、アート鑑賞の極意を(ちょっぴり)教えて頂いたようにも感じます。
宗教的な意味合いはともかく、アートという観点で捉えると古代ギリシアからヨーロッパに広まった藝術、古代インドから中国を経て日本に辿り着いた禅、一脈通じるものがあるのではないか・・・と思ったりもします。
ワタシにとって、アートとは何かを考えさせてくれるもの。こうした庭園の造作ももちろんそのひとつ。禅に言う「不立文字」、文字や言葉を排し体験によって伝えようとする教えからこうしたお庭が考え出されたのだと思うのですが、デザインされたお庭が何を表現しようとしているのかを読み取れるようになりたいものですなァ。

もう暫く緑に囲まれて癒されて(あるいは考えて)いたいとも思うのですが、雨がポツポツと落ちてきて思考を妨げる。次の目的地へ急ぎましょう。

宝厳院からわずかな距離、数分歩いたところにあるのが嵯峨嵐山文華館
元の名称は百人一首ミュージアム「百人一首殿堂 時雨殿」。時雨なんて、季違いではあるのですが、今日の天気にぴったり?! 
藤原定家が百人一首を撰んだ地、小倉山の麓、嵐山渡月橋の近くに在って、公益財団法人小倉百人一首文化財団が運営する、小倉百人一首や日本画をはじめとする京都ゆかりの芸術・文化を展示、振興するための施設。リニューアルとともに名称を改め、嵯峨嵐山文華館。常設展示はその名の通り、定家が選んで歌ガルタに編んだ百人一首を紹介する『百人一首ヒストリー』。
ですが、ワタシのお目当ては特別展『いちからわかる円山応挙と長沢芦雪』。
一番身近なはずなのに遠く感じて、知っているようでよく知らない日本画の、どちらも京都府のご出身でもある、師匠と弟子。
常日頃、「血中仏蘭西人濃度128%」、「Versaillesの黒薔薇」などと戯言を並べ、フランス近代芸術が一番親しめるとも言っているのですが、そのフランス近代絵画に影響を与えたとされる「Japonisme(ジャポニスム)」。
そのきっかけは19世紀中頃にパリなどヨーロッパ各地で開催された万国博覧会に出品された日本美術で、分けても浮世絵や琳派などの絵画作品が絶大な影響を齎した・・・とされる。
となると、日本美術も知っておかないとフランス近代絵画は語れない?! ・・・というわけで、機会があれば、それらのエキシビションにも脚を運んでみたりして。
しかし、日本画の世界も広くて深くて、ちょっと拝見するだけで読み解けるものでもないのは重々承知。深読み、深掘りしだすとキリがない。何が影響を与え、どういう作用があったのか、インフルエンスしちゃったのかと、薄く広くそれらの関係性を辿るうちにどんどん世界が広がっちゃって・・・。
百年以前の欧州に紹介されたのは浮世絵や琳派だけなのかしらン? 京都に興った円山四条派の精神はパリのエスプリになんらかの作用を及ぼしていないか? を領りたくて。

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会期は05月23日から07月13日まで。ええ、自粛だなんだで来そびれているうちに明日まで。雨など気にしてる場合じゃないの。

狩野派狩野探幽からの流れを引く鶴澤派の絵師、石田幽汀に師事し、のちに円山派を興した円山応挙応挙の門下に入り、応門十哲の一人にも数えられる長沢芦雪
浮世絵がお江戸で流行ったのと同時代の絵師でもあるし、お互いに差響き合うところがあったかもしれない。
少しあとのパリにおいては、「ジャポニスム」が大流行し、日本美術に高い関心を示した「japonaiserie(ジャポネズリ)」がブームとなって、「japonisant(ジャポニザン)」と呼ばれる日本美術工芸品収集家たちがそれら日本由来の逸品を奪い合ったのだもの、応挙芦雪の作品は運ばれなかったにせよ、彼らに連なる円山四条派のエッセンスはパリにも届けられた・・・かもしれない。実物はともかく、写真や印刷物を媒介として、フレーバーくらいは海を越えた・・・のではないかと。
現に、クロード・ドビュッシーがジャワ・ガムランの演奏にシビレちゃってる一方、同じ1889年のパリ万博で金賞を獲得したのは京都出身で四条派の画家、久保田米僊。京都画壇から新都に殴り込みをかけ日本一の栄誉を得たに留まらず、私費で渡仏し遊学する傍ら、そこで描いては賞を得た凄いヒト。
鎖国時代はせいぜい漆器や磁器だけが輸出品。開国とともに黒船が多くの美術品や工芸品をヨーロッパに運び、黄金の国、謎に満ちた夢の国から齎されたそれらの品々はお宝に見えたのでしょう。
単に「日本趣味」として画風や様式、技法を真似ただけではなく、日本美術をアートと捉え、文化として解釈されての「ジャポニスム」。そのブームの最中、取引された物量的には浮世絵(錦絵)が圧倒的なのでしょうが、日本文化として珍重されたのは日本式の禅の教えや京都画壇所縁の肉筆画だったんじゃないかなァっと。あまり目立たないのは、派手やかな錦絵やキンキラした琳派のインパクトに圧された、あるいは伝統に固執し過ぎちゃったんでしょうな。京都的な奥床しさ?

とまれ。意識だけがエールフランスのエコノミーに搭乗しちゃう。嵐山に帰ってこい。

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嵯峨嵐山文華館
の一階はカフェが併設されたよく見る洋風ギャラリーな設えで、二階は競技かるた用の大広間も兼ねる純和風な畳敷き。そこに並べられる応挙芦雪の作品約40点。諸般の事情により、ちょっと楽しみにしていた幽霊画は出展中止であるとか。やや小振りの軸装品が主に一階に展示されて、屏風絵などの大型作品は二階に並ぶ。ガラス越しではあるのですが写真撮影も許されて、畳に坐してのんびり眺められるのが良いところ。壁三面に作品が並び、残る一面は廊下越しに桂川の水面が望める設計。
「いちからわかる」とあって、添えられたキャプションも随分と平易。そのため、和紙に墨跡鮮やかに描かれた子供達やお猿さん、虎までが可愛く観えて。

模写で技法、伝統を繋いだ狩野派の一派らしく、応挙芦雪も同じ画題が幾つもあって、それらは並べられているのですが、似ているようで違う、見ようによっては全然違くて。
玩具屋に勤務していた修行時代に、西洋的な遠近感を取り入れた眼鏡絵から画業をスタートさせた応挙。レンズ越し、3D的に見えるように描かれた中国や京都の風景画。その後、石田幽汀に弟子入りし、狩野派鶴澤派の画風に倣い、それを基礎として自らの作風を極めていく。写生から細密で繊細な描写を得意とし博物学的観察眼で対象物を捉えながら、無駄を省き、一種象徴主義的なスタイルを築いたのは、自身絵を描き本草学にも精通していた天台宗円満院門主祐常がパトロンとなって、その教えが反映してもいるのでしょうか。
応門十哲の一人にして奇想の絵師のひとりにも数えられる芦雪の方はより大胆。応挙に弟子入りする前、芦雪と名乗る前から自分のスタイルを確立していたのでしょうか。師匠と同じ画題を描いてもどこか違う。走り描き、即興的にも見える筆致はきっちりと計算された座標を通って全体の均衡を保つ。
二人の絵に共通するのは、鑑賞者の視点まで考慮して描いているところでしょうか。障壁画や大きな屏風絵はもちろん、和紙に描かれた作品も軸装されて壁に掲げられた時の鑑賞者の目線まで頭に置いていると思われるところ。
芦雪は多分、その筆致を学ぶためではなく、応挙の眼力、眼鏡絵時代に培われたピント感というかフォーカシング術、遠目が効くような目の付け所に惹かれてその門下に入ったんじゃないかしら。(個人的な)想像ですけど。

畳の上に長ァ~い御御足を投げ出して、日本画の世界に浸っていたいのですが、そうそうのんびりもしていられない。
欲張りプランですから、もう一箇所。
塔頭寺院の宝厳院を拝見したのですから、本家(?)の天龍寺も訪ねてみます。
臨済宗天龍寺派大本山で、正式名称は霊亀山天龍資聖禅寺といい、開基は足利尊氏、開山は夢窓疎石後醍醐天皇の菩提を弔うため、釈迦如来を本尊として1345(康永4)年に創建された大寺院。南禅寺を別格とする京都五山の第一位で、嘗ては今朝方渡って来た渡月橋までがその境内の一角であったとか。今は「古都京都の文化財」のひとつとしてユネスコ世界遺産に登録される。
後醍醐天皇足利将軍家夢窓国師などの人物、政治や宗教の歴史的事柄にも関心を持てなくて、実在の確証が持てない神仏にも(まだ)興味は湧かない。ましてや、写経などを納めもせずに、わずかなお布施と引き換えに効果効能の知れない印影鮮やかなスタンプを集印して廻る趣味はない。まだまだ今生で学ばねばならないことが多くあって、来世を願うゆとりはない。解脱や輪廻を思う暇もない。そうした事柄はワタシのリベラル・アーツの最終頁、集大成としてとっておく。
ここでもお目当てはお庭のお花。

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夢窓疎石
が作庭したとされる曹源池庭園。造園の際に「曹源一滴」と記された石碑が見つかったことから「曹源池」と名付けられた池泉回遊式庭園で、嵐山亀山を取り込んだ借景式庭園でもある。
曹渓の源・・・それは中国禅宗の六祖にして曹渓宝林寺で布教された慧能のことで、達磨慧可僧粲道信弘忍と引き継がれた禅の流れを大成させたのが六祖慧能禅師。その教え、禅の真髄、正伝の禅法を「一滴水」と呼び、一滴の水さえ疎かにしてはいけないという意味であるらしい。
方丈からみた曹源池中央正面に2枚の巨岩を立て、それを「瀧門瀑」に見立て、「登龍門」のストーリーを現すデザイン・コンセプトは宝厳院獅子吼の庭」と同じ。こちらは枯山水ではなく、池を掘り、以前はその人工の滝に水が流れていたらしい。
度々戦火や地震などで焼失し、伽藍の大半は明治時代以降の再建で、お庭の設えも変わってしまっているかも知れませんが、日本で一番最初の特別名勝・史跡に指定され、世界遺産に登録されるまでになっているのですから、平安、鎌倉、室町時代の文化と歴史の重みを今に伝えているのでしょう。

ワタシ的には天龍寺が創建される前にこの地に在って荒廃してしまったとされる平安時代初期の寺院、京都で最初に禅を講じたとされる檀林寺に想いを馳せちゃう。栄枯盛衰、諸行無常。
皇太后橘嘉智子恵萼を使者に中国から招聘した義空禅師檀林寺を開き、そこに「曹源一滴」碑を置いて、夢窓国師がその故事来歴を知っておられて、京都での禅の始まりの地として、ここを選定し、日本での禅の始まりを枯らしてはいけないという思いで、「曹源一滴」の教えから「曹源池」と名付けられたのではないか・・・と、ついつい神秘のベールの向こう側、ミステリーめいたストーリーを想起しちゃう。

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硯石」拝むと書画が上達するのだとか。美文、麗文が書けるような文才が欲しい。

不立文字」。言葉や文字を排し、ひたすら坐禅し、その体験によって仏の教えを識る。お釈迦様がお花を捻る動作で悟りの極意を弟子たちに示し、言葉や文章では解釈次第で真意が伝わらないとして、禅宗の開祖、達磨大師がそれを禅の根本思想の筆頭に掲げた。
その真髄が日本に届き、最盛を極めた鎌倉時代には鎌倉五山京都五山でそれぞれ五山文学として栄え、膨大な数の法語集や詩文、論説、果ては日記まで。
多民族で多言語なインドでは言葉や文字だけでは伝わりにくくて、それが中国禅林に伝わる際にサンスクリット語から中国語に翻訳書写、盛んに文書化されるようになり、それがそのまま漢字、漢文で日本に輸入されて、ヨーロッパの知識人たちがラテン語を嗜んだように漢文が読み書き出来るイコール文才となっちゃった感もあって、当時の権力者を通じて布教活動を行うに当たって「以心伝心」とはいかず、中国禅林に倣って文章化、政治的、外交的にもそうした文才が活かされたのでしょうか。この辺りをもう少し深く調べたくなりました。
これから先もまだ外出自粛要請が出そうな気配もします。家に籠るなら、いっそ座禅でも組みながら禅や五山文学について考えてみようかしらン。

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陽が高くなって、曹源池庭園もヒトが多くなってきました。竹林の小径も渋滞しそうな様子。そろそろ街散歩は切り上げましょう。
まだまだ書きたい、書き足らないことがあるような気もしますが、またまた大部、ブログの域を超えちゃいそうなので、今日はここまで。
続きを思考するためにも、天然の美と人の手による美術。それを一体化させようとした借景式庭園だけでなく、京都の禅宗寺院のお庭を巡ってみたくなりました。インバウンドと「そうだ、京都へ行こう」な方々が少ない今がチャンス?!

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