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BESIDE BOWIE [散歩・散走]

さて、本日2本目の映画は音楽ドキュメンタリー。
シネリーブル梅田で「BESIDE BOWIE : THE MICK RONSON STORY(ビサイド ボウイ : ミック・ロンソンの軌跡)」を鑑賞いたします。
カリスマ中のカリスマ、ブリティッシュ・ロック・シーンに一時代を築いたアイコニックなカリスマを間近に支えたギタリストのストーリー。

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ブリティッシュ・ロック・シーンでアイコニックなカリスマといえば、数多在ったスターの中でも一際輝く巨星、デヴィッド・ボウイ(David Bowie 1947年01月8日 - 2016年01月10日)。
本名のデヴィッド(・ロバート・ヘイウッド)・ジョーンズでデヴュウした彼は、1964年にDavid Jones & The King Bees名義で最初のシングル「Liza Jane(リザ・ジェーン)」を発表、続けて幾つかの作品をリリースするが、ヒットには恵まれず、ボウイ(Bowie)に改名し、1967年に最初のアルバム『David Bowie(デヴィッド・ボウイ)』を発表。
ジェンダレスなカルトアイドルの名前が広く知られるようになったのは、映画『2001: A Space Odyssey(2001年宇宙の旅)』を翻案した、1969年発表のアルバム『Space Oddity(スペイス・オディティ)』のヒットによる。
それを足掛かりとしてスターダムにのし上がるのだが、ひとつのキャラクターに止まるのを嫌って、方向性をシフトし、その中性的な容貌を活かしてグラム・ロックを前面に打ち出すことになる。
その頃の彼は長い髪にフレアしたロング丈のワンピースだったり、パフ・スリーブの薄いブラウスに超ワイドなパンツ。
glamorous、魅惑的なポップ・アイコンとなった彼は、『Merry Christmas, Mr. Lawrence(戦場のメリークリスマス)」や『The Elephant Man(エレファントマン)』などで知られるように、音楽シーンだけでなく、俳優としても活躍。ジョーンズからボウイになるのに前後して、リンゼイ・ケンプ(Lindsay Kemp)と知り合い、パントマイムやダンスを習い、1969年にはマイケル・アームストロング(Michael Armstrong)監督の僅か14分の短編怪奇幻想(?)映画『The Image(イメージ)』に少年の亡霊役で銀幕デヴュウ。
カミングアウトなどまだ珍しい時代にバイセクシャルであることを表明(のちに取り消し)しつつ、モデルのアンジー・ボウイ(Angie Bowie)ことメアリー・アンジェラ・バーネット(Mary Angela Barnett)と結婚、長じて映画監督ダンカン・ジョーンズ(Duncan Zowie Haywood Jones)となる長男ゾウイ・ボウイ(Zowie Bowie)を授かる。
デヴィッドアンジーが暮らす邸宅には多くのアーティストが集って、そこで結成されたのがThe Hype(ハイプ)で、1970年にリリースされた彼らのアルバム『The Man Who Sold the World(世界を売った男)』からギタリストとして加わったのがロノ(Ronno)ことミック・ロンソン(Mick Ronson 1946年05月26日 - 1993年04月29日)。

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十代の頃はロンドンで幾つかのバンドを組んだ彼も売れないままに故郷、イングランドヨークシャー州キングストン・アポン・ハルに戻り、細々と音楽活動を続けながらも、生計を支えたのは公園の庭師の仕事。日々芝刈り機を押して、多額の借金返済に追われる日々を過ごしていた。
トニー・ヴィスコンティ(Tony Visconti)ら、友人・知人の縁を介して、デヴィッドと行動をともにすることになるが、サポート・メンバー、ギタリストとしての役割では双方ともに満足出来ず、デヴィッドの望むままに、彼の片腕として、その音楽性にまで影響を与えることになる。
世界を売った男』が当たって、そのギャランティで潤ったのか、そこを離れ自身のバンドを持とうとするがデヴィッドに引き止められて、その後1973年の『Pin Ups(ピンナップス)』まで”Beside Bowie”、傍らに居て彼を支え続けた。

ミックを困惑させたのは、デヴィッドのエキセントリックな行動。
バイセクシャルだと公言したせいで、一緒にいる彼までそうだと誤解を受け、それを払拭するかのように、デヴィッドのヘアメイク・スタイリストを担当していたスージー(Suzi)と結婚。
さらに彼を戸惑わせたのは、衣装やメイクアップ。
グラムロックを掲げるデヴィッドは奇抜な化粧に派手なコスチューム。それをメンバーにも強いるのだから・・・。逃げ出したくなるのも、分からなくはない。

この頃のデヴィッド・ボウイは、デヴィッド・ボウイではなく、Major Tom(トム少佐)だとかSpace StarRainbowman、そして、セッション・アルバム『Hunky Dory(ハンキー・ドリー)』やコンセプト・アルバム『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars(ジギー・スターダスト屈折する星屑の上昇と下降、そして火星から来た蜘蛛の群)』を制作する頃から名乗ったのがZiggy Stardust(ジギー・スターダスト・屈折する星屑)。
火星蜘蛛と名付けられたのは、ハルでThe Rats(ラッツ)を組んでいた、ミック・ロンソン(Gt)にトレバー・ボルダー(Trever Bolder・Bs)、ミック・”ウッディ”・ウッドマンジー(Mick Woodmansey・Ds)。彼らも変なニックネームを付けられることになるのだが・・・。
衣装やステージ・ネームはともかく、ミックはパフォーマンスのみならず、曲作りでもデヴィッドを支え、貢献することとなり、オーケストレーション、記譜法を学びたいからと一時帰郷した後には、以降の楽曲のストリングス・アレンジメントまで手がけるようになる。幼少期からピアノやヴァイオリンを習っていたというから、そうした素養は元々持ち合わせていたのでしょう。
火星から来たエイリアン御一行は、アルバムのヒットを受けて、アメリカ・ツアーを敢行。
ジャズ・ピアニストのマイク・ガーソン(Michael David Garson)を加えて、『Aladdin Sane(アラジン・セイン)』を発表。
順風満帆かと思われたが、ジギーことデヴィッドが突然の引退発表。今後ジギー・スターダストアラジン・セインとしては活動しないとして、原点回帰、マンハッタンに暮らすハロウィーン・ジャック(Halloween Jack)を名乗って、自身唯一のカヴァー・アルバム『Pin Ups(ピンナップス)』をリリース。スパイダース・フロム・マーズからはギターのミックとベースのトレバーが参加し、ドラマーはウッディからエインズレー・ダンバー(Aynsley Dunbar)に交代。
このアルバムを最後に、デヴィッドミックは袂を別つことになる。

ジギーからデヴィッドに戻り、退廃的なアルバム『Diamond Dogs(ダイアモンドの犬)』からソウル色の濃い『Young Americans(ヤング・アメリカンズ)』、『Station to Station(ステイション・トゥ・ステイション)』を立て続けに発表、映画『The Man Who Fell Earth(地球に落ちて来た男)』でトーマス・ジェローム・ニュートン(Thomas Jerome Newton)を演じるうちにドラッグに溺れていくことになるかつての盟友を横目に見ながら、ミック・ロンソンは初のソロ・アルバム『SLAUGHTER ON 10TH AVENUE』をリリース。
かつてデヴィッドが楽曲提供もしたMott the Hoople(モット・ザ・フープル)に加わったり、そこを脱退後はボブ・ディラン(Bob Dylan)のコンサートにサポート・ギタリストとして参加。
その後は、セッション・プレイヤーや音楽プロデューサーとして活動し、元モット・ザ・フープルのヴォーカル、イアン・ハンター(Ian Hunter Patterson)に元スパイダースのメンバーを交え、ハンター=ロンソン・バンドとしてアルバム『YUI Orta』を作成したのが1989年。
デヴィッドほどの派手さはなく、謙虚で地道、音楽シーンで一定の評価を得ていたが、そんな彼を病魔が襲う。

一方、デヴィッドは薬物から逃れるために、名前もシン・ホワイト・デューク(Thin White Duke・痩身の青白き公爵)と改め、活動拠点をベルリンに移し、ブライアン・イーノ(Brian Eno)とのコラボレーション、いわゆるベルリン三部作、『Low(ロウ)』、『Heros(ヒーローズ・英雄夢語り)』、『Lodger(ロジャー・間借人)』をリリースした後、アンジーと正式離婚し、アメリカへ移り、再びトム少佐となり『Scary Monsters(スケアリー・モンスターズ)』をリリース、映画『The Hunger(ハンガー)』や『Merry Christmas, Mr. Lawrence(戦場のメリークリスマス)』に出演し、それまでのカルトヒーローとしてのペルソナをかなぐり捨てて、ようやく素顔のデヴィッド・ボウイとしてニューウェイヴ系アルバム『Let's Dance(レッツ・ダンス)』を発表。ロックスターとして君臨するかに見えるも迷走期。それさえ捨ててハードロック・バンド、Tin Machine(ティン・マシーン)を結成。
再びソロ活動に入るのは1993年に2人目の妻、イマン・アブドゥマジド(Iman Mohamed Abdulmajid)と再婚した頃。

遠く離れて活動するミック・ロンソンデヴィッド・ボウイ。彼らが再びまみえるのは1992年04月20日にロンドンのウェンブリー・スタジアムで開催された「Freddie Mercury Tribute Concert(フレディ・マーキュリー追悼コンサート)」。
前年にHIV感染合併症によるニューモシスチス肺炎のために45歳で亡くなったフレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)の死を悼んで、錚々たるアーティストが集う中、The Queen(クィーン)とは1981年の作品「Under pressure(アンダー・プレッシャー)」でコラボレーションを演じていたデヴィッドは、追悼コンサートのジョイント・ライヴで同曲を披露し、併せて自身が作曲しモット・ザ・フープルに提供したAll the Young Dudes(すべての若き野郎ども)」、「Heroes」を披露するにあたり、それを共作したミックを招聘し、ブライアン・メイ(Brian Harold May CBE・ギター)+ロジャー・テイラー(Roger Taylor・ドラムス)+ジョン・ディーコン(John Richard Deacon・ベース)+イアン・ハンター(ヴォーカル&ギター)+ミック・ロンソン(ギター)+デヴィッド・ボウイ(サックス&コーラス)+ジョー・エリオット(Joe Elliott・コーラス)+フィル・コリンズ(Philip David Charles "Phil" Collins・コーラス)という夢のコラボレーションが実現。
この時ミックは肝臓癌の告知を受け余命も数ヶ月。それでもギターを手放さず、闘病しながらも音楽活動を続けていた最中のこと。
その共演から、1992年製作のデヴィッドのソロアルバム『Black Tie White Noise(ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ)』のレコーディングに参加。これが二人の共同作業の最後。1993年4月23日にミック・ロンソンは永眠。医師が告げた存命期間を1年以上延ばすがそこで力尽き、享年46歳。

このドキュメンタリー映画は、デヴィッドが存命のうちにミックの死を悼んで、彼の妻スージーが懇願したことから始まる。
デヴィッドにも死が迫る中、その願いは聞き入れられ、彼のナレーションが実現。彼がシン・ホワイト・デュークだった頃のマネージャでもあるジョン・ブルーワー(John Brewer)に監督を委託、ライヴ・シーンやミックデヴィッドのプライベート映像、多くの友人、盟友達の証言をコラージュし、デヴィッドの死後、2017年に公開されることとなった。



デヴィッド
ミックの関係を語るのは、その頃一番間近にいたデヴィッドの前妻アンジー・ボウイミックと生涯連れ添った、デヴィッドのスタイリスト、スージー・ロンソン
ロノことミックがいかに愛されたアーティストであったかを証言するのは、当時セッションを繰り返した、リック・ウェイクマン(Rick Wakeman)、イアン・ハンターマイク・ガーソントニー・ヴィスコンティロジャー・テイラーに加えて、ジョー・エリオット(Joe Elliott)、ルー・リード(Lou Reed)、ルル(Lulu)、アール・スリック(Earl Slick)、グレン・マトロック(Glen Matlock)、et cetera、エトセトラ。肉親として、ミックの妹、マギー(Maggy)も彼を語る。
ロノを見送った彼らが語る言葉も、当時を懐かしむように、感慨深いものになっているのだけれど、デヴィッドミックが並び立ってのセッション・シーンがとてもエモーショナル。フレディの追悼コンサートの場面なんて涙がちょちょぎれそうになるっしょ。
映画の中には生前のミックが語るカットも多くあるのだけれど、自身のギター・サウンドの秘密(?)、ワウ・ペダルの使い方講座(?)が興味深い。そこではFender Telecasterを使った解説なのだけど、ステージで愛用していた1968年製Gibson Les Paul  Customでの音作りは本当に企業秘密で開かせないのね、多分。
それに変わって、ロノのアレンジメントの秘密を開示するのは、リック・ウェイクマン。キーボーディストらしくピアノ・ソロでのレクチャーになるのだけれど、ロノの粗削りでシャープな印象がちょっと薄れているような・・・。
もうお一方、ピアノでロノを送るのは、マイク・ガーソン。こちらはオリジナルの追悼曲。

この映画の完成を待たずに、デヴィッドも他界しちゃったんでしょうか。ソロでの活動、素顔のデヴィッド・ボウイとしてのパフォーマンスは、2004年で一度途切れ、2013年に再起するも、2016年の『Blackstar(ブラックスター』を最後として、2016年1月10日、肝癌により死去。69歳の誕生日を過ぎ、その二日後に還らぬ人となった。

片や、1996年『ロックの殿堂』入り。『グラミー賞』5回受賞(19回ノミネート)。NME誌選出『史上最も影響力のあるアーティスト』などに選出されれば、もう一方は、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第64位、2011年の改訂版では第41位。
片や、華々しいロック・スターなら、片や、謙虚で誠実な天才ギタリスト。その天才的な職人技がカリスマをカリスマ足らしめた、相棒というよりは、片腕だったのでしょうね。彼らが離れることなく、ずっと一緒にいたら、どうなっていたんでしょう。
デヴィッドが選りすぐりのスター・プレイヤー達とセッション、コラボレーションするものだから、ミックがその中に埋れちゃってる感があるのね。

デヴィッド・ボウイが「Let’s Dance」なんて歌っちゃうから、そこでワタシのロック史は終わっちゃったんですけど、映画『Bohemian Rhapsody』を観て、60年代のポップ・カルチャーを取り上げた『My Generation』を観て、その世代にちょっと乗り遅れたワタシも60’sから巻き戻して聴き直す日々。そこには、きら星のごとくロック・スター、ロック・アイコンが居並ぶのだけれど、デヴィッド・ボウイは飛び抜けてFirst magnitude star。強烈な輝きを示す巨星。
その伴星・・・不世出のギタリストを偲びつつ・・・。

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