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Re:Foujita ~ 「没後50年 藤田嗣治展」再訪 [散歩・散走]

花見小路通を起点として、一念坂、二寧坂(二年坂)、三年坂(産寧坂)を経由して、清水寺。そこから更に脚を伸ばして、平安神宮前。早朝散歩のゴールは、京都国立近代美術館。先日、一度拝見している『没後50年 藤田嗣治展』を再訪致します(→記事参照)。

10月19日から12月16日を会期とする同エキシビション。
ワタシが前回訪れたのが、11月10日の日曜日。その時は、細見美術館での『日文研コレクション 描かれた「わらい」と「こわい」展 - 春画・妖怪画の世界 -』を鑑賞した後で午後からの入場。それなりの人出でしたが、混雑しているとまでは言えない程度。
その後評判が評判を呼んで、もしかしたらワタシのブログ(→記事参照)のお陰でしょうか、連日の盛況ぶりで、来場者数がのべ50,000人を突破したのだとか。
すし詰めを嫌って、二度目の来訪は平日の朝一番。
今回も前売り券を手に、オープン前の京都国立近代美術館へ辿り着くと既に数十人の行列。開場時間となる頃にはそれも長蛇の列になって、何やら日曜日の午後より混雑しそうな様子。
それもある程度は想定の範囲内。前回よりゆっくりと時間を掛けて拝見しようと、わざわざ有給休暇まで取って、それだけじゃあ勿体無いからと早朝のお散歩までお膳立てしての平日行脚。

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既に一度拝見しているので、どんな順番でどの作品が何処にあるかも把握済み。会期中に入れ替えはないとのことで、東京美術学校時代の『自画像』から最晩年の作品まで、約130点がほぼ製作順に並んでいる。その変化、変遷をじっくり観察しようというのが今日の目的。

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60年分の画業約130点は、
I 原風景 - 家族と風景 Primal Landscapes - Family and Surroundings
II はじまりのパリ - 第一次世界大戦をはさんで Early Paris Day - The First World War
III 1920年代の自画像と肖像 - 「時代」をまとうひとの姿 Self-Portraits and Portraits of the 1920s - Faces of the Times
IV 「乳白色の裸婦」の時代 The “Milky White Nudes”Era
V 1930年代・旅する画家 - 北米・中南米・アジア Artist on the Move - The 1930s in North America, Latin America, and Asia
VI-1 「歴史」に直面する - 二度目の「大戦」との遭遇 Face to Face with History - Encounter with the Second “Great War”
VI-2 「歴史」に直面する - 作戦記録画へ Face to Face with History - The War Paintings
VII 戦後の20年 - 東京・ニューヨーク・パリ The Last Twenty Years - Tokyo, New York, and Paris
VIII カトリックへの道行き Path to Catholicism
と8つのセクションで区切られていて、それはほぼ製作年代順で、変遷を追うには都合がいい。

で、今回着目したいのは、作風・画風の変化に加え、それに添えられ、作品ごとに変化する署名(シグネチャー)や、静物画の中に描かれる品々、自画像の表情、ミルキーホワイトで表現されるヌード、そして愛らしいニャンコたち。

藤田嗣治」の出生名は「ふじたつぐはる」であるはずなのですが、フランス人にも発音しやすいように「つぐじ」と読み替えたそうで、サイン表記も「Fujita」ではなくフランス風に「Foujita」。そこまでは理解出来るのですが、渡仏後でも漢字署名を使ったり、カタカナで「フジタ」あるいは「フヂタ」としてみたり。
フランスに帰化し、カトリックの洗礼を受け、「Léonard Foujita(レオナール・フジタ)」となるまで、定まることの無かったサイン。偶々その場の思い付きで書いたものか、何か意図があってのことか。
父方は安房長尾藩本多家家老職の藤田家、母方は江戸旗本で御一新後は陸軍省御用掛となった小栗家で、何れも武門の出で士族。家名を重んじるはずで、嗣治もそれは十分に心得ていたはず。
軍医や軍部所属の家業を””がず、独り芸術の途に進んだことに対する悔悟の念から署名に家名を用いるのは憚られたのでしょうか・・・とも考えたのですが、「藤田」は使われてもいて、作品ごとに変わってどうも一貫性がない。そこに何かしらの法則性があるのかしら・・・と検証を試みる。

フジタの作品というと、乳白色の裸婦像、自己を描いたポートレイト、そして猫たちが多く登場する事で知られるが、静物画や風景画でも観るべきものが多く、それらも幾つか展示されていて、風景画こそ、パリ市内であったり、日本各地の情景であったりと変化はあるのですが、静物画に描かれる対象物、モティーフは時期を問わず同じ静物が繰り返し用いられているのに気付きます。
時計、眼鏡、パイプ(煙草)、絵皿、そして・・・。それらは何を意味するのか。

フジタフジタ自身を描いたセルフ・ポートレイト。今回の展示作品の中で、『自画像』となっているものは7点。宗教画の中に、自身をモデルにして描き込まれたものが2点。1910年、東京美術学校時代の作品から最晩年まで、年齢による変化は当然として、その表情はどう移ろうのか。

フジタの代名詞(?)、乳白色の裸婦像。その類い稀なる白さは眼を見張る。そして、より写実に描かれた猫たちの表情。それら愛しきものたちをどう描き分けたのか。

8つに区切られた約130点の絵画。前回の初見時ほどの衝撃は得難いのだけれど、そのインパクトが無い分、一箇所に集中する事なく、画面の隅々まで具さに観ることが出来る。
画面を詳細に観る事は出来ても、その中、その奥に潜むニュアンスまで読み取るのは難しい。観たまま、視えるままなのかしらン?
おかっぱ頭にちょび髭、丸眼鏡にピアス。風貌まで中性的にしてみせる、自己演出に長けたフジタ。自画像にはお裁縫道具まで書き込む周到ぶり。初期の作品では、少ない家財をいかに使いまわして、多くのイメージに発展させるか終始したのでしょう、同じ対象物を使い回し。それらはフジタの愛用品。メガネであったり、パイプや煙草であったり。時計は・・・?!
時間に追われる生活でもあったのでしょう。
渡仏を許し、その費用まで用立てた父からは30歳までは面倒をみると刻限を切られ、二人目の妻の推挙もあって多少売れるようになって初の個展後、そのエキスポジションを担当したシェロン画廊と契約に漕ぎ着けるも、それは1日あたり水彩画とガッシュをそれぞれ2点ずつ納品しないといけないという取り決め。時計に追われる毎日で、それこそ猫の手を借りたいほどの仕事量?!
その契約量を上回るほどの作品を手掛けたのだとか。

渡仏後の取っ掛かりこそ早くに知己となったパブロ・ピカソアメデオ・クレメンテ・モディリアーニに倣った作風。自分のアイデンティティとなるのは日本語、漢字の署名。独自の画風を模索し、模倣からジャポニスムの原点に立ち返り、美人画から着想を得てそれに用いられた白が必要となったのでしょうが、花胡粉、本代胡粉、方解末、面胡粉、大胡粉、わじろ白土、白を試すにしてもその何れもが高価で、思う効果も得られたかったのか、理想の白を求めて辿り着いたのが硫酸バリウムとタルクを下地として炭酸カルシウムと鉛白の重ね塗り。その白を際立たせるために面相筆で細い輪郭を付けたのでしょう。タルクの正体は和光堂のシッカロールであるそうな。タルク(滑石)などの鉱物とコーンスターチなど植物の澱粉が主原料。天花粉に近しいもの。
初期の作品は白が映えるように背景は漆黒。それが背景まで白に置き換わり、白のグラデーションも微妙に変化しながら立体感まで持つようになって、完成したのが「Grand Fond Blanc(グラン・フォン・ブラン)」・・・素晴らしい白地。

そのヌード・モデルを務めたのは主に、歴代の伴侶。その最初は、色の白さから「お雪さん」とフジタが呼んだリュシー・バドゥ。膨よかで肉感的なこの女性、裸婦像のモデルにはうってつけだったのでしょうが、5度の結婚を繰り返したフジタ、女性にはある種の拘りがあったのでしょう。それは、4歳の頃に死別した母の面影ではないかしらン。
白い肌。シッカロール・・・天花粉(ベビーパウダー)。辛うじて記憶に止まる母の匂い。中性的に装った自画像に母の面差しを見たのかもしれません。
それが高じたのか、日本の神仏でも癒されない寂しさは聖母に委ねられて・・・。母子像や聖母子を多く描くこととなる。

もうちょっと穿った見方を進めたら、もしかしたらフジタの内面にある女性的な部分、自らが理想的な女性像に近づきたかったのかもしれません(表現に気を遣っちゃうなァ)。
それが白い肌を持つYoukiさんだったり、想い出の中の母だったり、究極は慈愛溢れる聖母マリア。彼が晩年に自ら設計、建築した通称「フジタ礼拝堂」の壁面には救世主とともに聖母も大きく描かれて・・・。
正式名称が「平和の聖母礼拝堂(La Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix)」。若くして逝った母の鎮魂と自らの内にある理想の女性を崇めるためのチャペル。150歳まで生きてそのチャペルを完成させると仰言ったそうですから、その思い入れも並並ならぬもの。それまで描いた作品はそこに至るためのスタディ(習作)だったのでは・・・とまで思えてしまう。 行って観たくなりますね。
その祭壇の下、聖母子像の足元にレオナール・フジタこと藤田嗣治とその夫人君代改めマリー=アンジュさんの遺骨が埋葬されているという。やはり、母に抱かれて安寧に眠りたいということなのでしょうか。

藤田フジタとなり、FujitaからさらにFoujita。仏蘭西語でお調子者を意味する「FouFou」から捩ったという。FouFou(お調子者)のFoujita。契約した画商から日本語署名は読めないからフランス語表記にしろと言われたりもしたのでしょう。それをそのままFujitaにせず、自らお調子者を名乗ったほどなのだから、どこまで自己演出なのか。真実は最後の礼拝堂の中、「Foujita Code(フジタ・コード)」を解くにはフランスのマルヌ県ランスを訪ねてみないといけないのかもしれませんね。

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