SSブログ

ピカソを巡る冒険?! [散歩・散走]

先達て(09月02日)が「旅するフランス風景画」でフランス各地からロシア・プーシキン美術館に集められた風景絵画なら、今日は「版画をめぐる冒険」、フランス国立図書館に所蔵される版画・・・それもパブロ・ピカソ(とその他少々)の作品にフォーカスしたエキシビション。
近代から現代を股に掛け、一時代を築いたピカソの、それも主に晩年の曰く付きの版画に特化した内容とあっては行かないわけにはいかないでしょう。
美術館「えき」KYOTOに参ります。

昨今は美術品も、旅をさせられたり、冒険に連れ出されたりと、えらく骨折りなことと同情を禁じ得ないが、そのお陰をもって、大阪に居ながらにしてプーシキン美術館フランス国立図書館の所蔵品が鑑賞出来るのだから、まァ、有り難いことで。

パブロ・ピカソこと本名パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ(Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno Cipriano de la Santísima Trinidad Ruiz Picass 1881年10月25日 - 1973年04月08日)はスペイン・マラガに生まれ、主にフランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。
フランス画壇において筆頭ともなる大看板で、キュビスム(Cubisme・立体派)の創始者とされるが、作風が目紛しく変化したことでも知られ、「青の時代(1901~1904年)」から始まって、「ばら色(桃色)の時代(1904~1907年)」、「アフリカ彫刻の時代(1907~1908年)」、「セザンヌ的キュビスムの時代(1909年)」、「分析的キュビスムの時代(1909~1912年)」、「総合的キュビスムの時代(1912~1918年)」、「新古典主義の時代(1918~1925年)」、「シュルレアリスムの時代(1925~1936年)」、「ゲルニカの時代(1937年)」、「晩年の時代(1968~1973年)」・・・、とよくもまァ、これだけイメージ・チェンジ出来るものとも思うが、それだけ長生きもされて、創作意欲が枯れることなく次から次へとインスピレーションが湧き上がって来たのでしょう。
作風が変化しただけでなく、生涯で約13,500点の油彩画と素描画、100,000点に及ぶ版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻や陶器を手掛け、最も多作な美術家としてギネスブックにまでその名前を残す超多作家。

ワタシは昨秋から、浮世絵などの日本美術がフランス絵画に与えた影響、その足跡を辿って来たのですが、その発端、Hokusaiこと葛飾北斎も88歳という当時では稀な長寿を得て、没するまで絵筆を離さず、風景画から人物画、奇想画や春画まで、版画作品だけで1,385点、肉筆画を含めるとその生涯で30,000を超える作品を残したとされる。北斎が日本を代表する「画狂人」なら、ピカソはヨーロッパを代表するそれに当たる。
ミュージアムをひとつくれ。埋めてやる」と豪語されたそうで、創作意欲も画力も半端ない・・・どころか超絶倫で、作品の幅広さとも相まって「画超人」とでも呼ぶべきか。
実際には彼の死後、パリに国立ピカソ美術館がオープンし、故郷マラガにも彼の名を戴くミュージアムが開館。だけに留まらず、フランス・アンティーブにも、スペイン・カタルーニャのバルセロナやオルタ・デ・サン・ジョアン、ゴソルにも、マドリードやブイトラゴ・デ・ロソヤにも、スイス・ルツェルンやドイツ・ミュンスターにまで「ピカソ美術館」があって、それだけ人気、需要があって作品もテンコ盛りということなのでしょう、質・量ともに他を圧倒するスーパーマン。
もちろん、他の美術館やそうした施設以外にも彼の作品は存在し、誰もが一度は、何れか数点は眼にしたことがあるであろうピカソ芸術。
その中から、フランス国立図書館(Bibliothèque nationale de France, BnF)所蔵となる多様な版画作品、銅版画、リトグラフ、リノリウム、木版画が、ジェイアール京都伊勢丹内の美術館「えき」KYOTOに出張展示される今回の催し。

フランス国立図書館は、1367年にシャルル5世によって創立された王室文庫を起源とし、フランス革命や帝政期を経て、1980年代、フランソワ・ミッテラン大統領による「パリ改造計画・グラン・プロジェ(Grands projets)」に則り現代の国立図書館となり、芸術的・科学的な資料を多数収蔵、書籍及び印刷物、原稿、版画、写真、地図、楽譜、コイン、メダル、録音資料、ビデオ、マルチメディア、装飾品、コスチューム等にいたる1,500万点に及ぶ資料をコレクションする世界最大級の図書館(ライブラリー)・・・というより、多岐に亘る資料館(ミュージアム)?!
かつては革命や政変で多くの貴重な資料が焚書されたりもしたので、それらの保護、維持管理するというのも目的のひとつなのでしょうが、その中には芸術作品も数多含まれ、芸術的・科学的な知的学問のすべてが百科事典の精神に基づき紹介されて、著作権の期限が切れ、パブリックドメインとなったものについては電子図書館「ガリカ(Gallica)」として、インターネットを通じて世界中から閲覧可能となっている。

picasso_flyer_01.jpg

まァ、ライブラリーにしろミュージアムにしろ、そこに所蔵されるピカソの版画作品に、彼が影響を受けた(とされる)巨匠たちの作品を合わせた約100点がパリから京都へ、09月07日から10月08日を会期とする展覧会に出展されるっと。

picasso_flyer_02.jpg

フランス国立図書館 版画コレクション ピカソ 版画をめぐる冒険
ピカソ作品が、海越え山超え冒険旅行の末に、パリから京都に辿り着いた・・・ってことではなく、彼の”挑戦心あふれる独創的な表現”を「冒険」に擬えているのでしょう。批判やスキャンダルを恐れず、描きたいものを描きたいように描く。簡単なようで、なかなか出来るこっちゃありません。

サン・テルモ工芸学校美術教師であった父の指導のもと幼少期からデッサン力を身に付け、ガリシア地方ラ・コルーニャの美術学校、バルセロナの美術学校、マドリード・王立サン・フェルナンド美術アカデミーでそれにさらなる磨きをかけ、1901年、20歳にしてパリで初めての個展を開催。
ピカソというと、代表作として「アビニヨンの娘たち(Les Demoiselles d'Avignon 1907年)」、「泣く女(La femme qui pleure 1937年)」、「ゲルニカ(Guernica 1937年)」などの油彩画が挙げられるが、角々カクカクした絵を観たら全部ピカソかと思っちゃうくらい、それらはとてもユニークで特徴的で、彼の揺るぎない個性ではあるのだけれど、このエキシビションで紹介される版画も他に類を見ないほど独創的。

ピカソの作品、それもキュビスム(Cubisme・立体派)的なものは、分かりにくい、難しいとか、醜い、恐い、キモい(?!)と仰る向きもあるのだけれど、ワタシ的には、「機能和声法と対位法の融合による立体的表現」と音楽的解釈(?)で一応の納得を得ているのだけれど、どうでしょう(個人的見解です)。

一点透視図法・・・ひとつところからの視点で遠近感や立体感を表す遠近法は、音楽的表現では基音に基づく機能和声。それに対して、複数の視点から捉えた対象を平面上に再構築する立体派の技法は、複数の旋律を、個々の独立性を保ちつつ互いに調和するよう重ね合わせる対位法・・・に近い・・・のではないかと。
「対位法」は「counterpoint」、対抗する点。視点が幾つも存在するキュビスムもそれじゃないかなァ・・・っと。
それらの技法も年代によって様々、もちろん画家や作曲家による個性も加わって、変化もあるのだけれど、機能和声の理論が確立するより歴史は古く、ある意味原初的というかプリミティヴ。立体派とされるピカソやジョルジュ・ブラックも古典以前の絵画からそのインスピレーションを得たのではないか・・・っと。
同時代的な「色彩和声」、近代和声や無調性になる現代和声を感じさせつつも、和声的な遠近感と対位法的な位相差、幾何学的でもあるその塩梅は時に、J.S.バッハの「インベンション」や「シンフォニア」をもっと多声化したような感じにも思えて、調性感が希薄なようでいて、ギリギリのところで機能してバランスを溜まっているのが感じられる(個人の感想です)。
キモいどころか、エモいんじゃね?!

遠近感や立体感を捨てて、対象を平面的に捉えた浮世絵のアンチテーゼでもあるのかしらン?! 
あるいは、いわゆるバロック期の、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さを19~20世紀の超前衛的に表現すればこうなるんじゃないかと。
「ルネサンス」=再生、「バロック」=イビツな(真珠)の近代的再構築。ピカソをキモいというなら、バロック期の作品も結構グロいぞ(個人の感想です)。

で、ね。

ピカソは天才だと言われるけれど、セザンヌアフリカ彫刻をお手本にしながら独自のレトリックを導き出し、代表作の「泣く女」にしろ、「ゲルニカ」にしても、多くの習作を重ねた末の完成形。もちろん、持って生まれた才能も非凡過ぎるくらいに非凡なのでしょう。父や学校、アカデミーからの指導もあったのでしょうが、もしかしたら、描いて描いて、努力の反覆で傑作を生み出した秀才なのではないかと思います(個人的見解です)。
美術学校を三軒もハシゴ(?)しちゃって、そこで得た知識、技巧。パリ・モンマルトルの安アパート「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」に暮らしながら、他の芸術家たちとの議論から得た発想。その傍ら美術館へ足繁く通い、先達の作品から刺激を受けて、そこから得た見識。伝統を模倣するのではなく、それらを噛み砕いて、咀嚼の末の習作から傑作を作り上げたのだから・・・。
だから、「明日描く絵が一番すばらしい」、「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」と仰言ったくらいで、評価を二分する晩年の作品にこそよりピカソらしさが出て、やっと描きたいものを描きたいように描くことが出来た「晩年の時代(1968~1973年)」は熟達の時代として面白いとも思うのですが・・・(個人的見解です)。
翁死に臨み大息し『天我をして十年の命を長らわしめば』といい暫くして更に言いて曰く『天我をして五年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし』と言吃りて死す
北斎は90歳で臨終を迎え、「あと5年命を永らえることが出来れば、本当の画工に成り得たであろう」と仰有ったという。晩年のピカソもその心境に近かったのではないでしょうか。習作を幾つも重ねた頃は、いかに”破壊”するかを模索していたでのしょう。その時期を過ぎ、それまで試みた作風の集大成でもあり、心のままに創作出来るようになったのは、「晩年の時代」。それまでが求道者で、神がかった「ゲルニカ」以降は解脱者となったのかも知れません。
その「ゲルニカ」以降、「晩年の時代」に銅版画作品が多くて、これがかなりの曰くつき。

ルネサンス~バロックから続くアカデミックなものを瓦解させて、浮世絵アフリカ彫刻などのエキゾティックで世俗的な要素まで取り込み、それらを独自のレトリックで再構築。ある意味究極的で、遣り尽くした感があって、(彼ひとりの功績、仕業ではないにしろ)”破壊者”とも呼ばれる彼のあと時代は「シュルレアリスム(surréalisme・超現実主義)」、「アヴァンギャルド(avant-garde・前衛)」、「アンフォルメル(Art informel・非定型芸術)」、「抽象表現主義(Abstract expressionism)」、「新表現主義(Neo-expressionism)」へと移る。
ポップ・アートモダン・アートへと芸術の領域を広げた先駆者、開拓者。
芸術の時空、次元をヒン曲げちゃって、ヨーロッパのアカデミズムをお仕舞いにしちゃって、「芸術の都」がパリからニューヨークに遷都されるキッカケを作っちゃった?

・・・と、まァ、ワタシのピカソ評はどうでもいいんです。朝一番、先客のいない古都のミュージアムで、おフランス・パリから運ばれたピカソ作品を拝ませて頂きましょう。

館内は、
第1章 版画家ピカソの主題
  1-1 肖像画
  1-2 静物画と動物の表象
  1-3 芸術家とモデル
  1-4 裸体画
  1-5 神話と古代
第2章 過去の巨匠たちへの賛辞
  2-1 ピカソとフランスの伝統
  2-2 ピカソとスペイン画派
  2-3 ピカソ、レンブラントに立ち向かう
  2-4 ピカソ、クラーナハの作品を再解釈する
9つのセクションに区切られて、そこに掲げられたテーマに沿った作品が並ぶ。

画商アンブロワーズ・ヴォラールの依頼で描かれたオノレ・ド・バルザックの小説 『知られざる傑作』 の挿画として作られた 「画家とモデル」 の版画10点に端を発し、それが後に、当時同棲中のマリア・テレーズの彫刻を作った経験に基づいた「彫刻家とモデル」のシリーズになり、さらに時を経て、油彩の連作「画家とモデル」となるが、それらは総数約300点!! まァ、「私の創造の源泉は、私が愛する人々である」と言い放っておられますから・・・。

肖像画」や「芸術家とモデル」に描かれるのは主に、ピカソとゲスい関係にあった女性たち。マリー・テレーズ・ワルテルドラ・マールフランソワーズ・ジロージャクリーヌ・ロック。そして、フランソワーズとの間に生まれた愛娘、パロマ
それぞれの愛人たちと、各々蜜月関係にあった時期に製作されたそれらは、1905年から1966年にかけての作品で、その時々で画風が大きく異なる。
芸術家とモデル」。画家で彫刻家・・・芸術家とそのモデルが交わす交換絵日記とも見えて、写実的なリトグラフもあれば、キュビスムらしい構図のリノカット。ピカソの視線が捉えたモデルの描写というより、芸術家とモデル、二人の間に取り交わされたテレパシー的な心の遣り取りによって産まれた愛の結晶のようにも思えて、面白いのは写実的なものより崩せば崩すほど、そこに描かれる女性たちの表情が活き活きと微笑んでいるようにも見えて、軽やかなシャンソンを口ずさんでいるのが聴こえるような・・・(個人的感想です)。

それが、「裸体画」となると、しどけないどころか、女性器も露わなコンポジションで、それこそイタズラ描きのようでもあり、「不能老人のポルノ幻想」、「時代遅れの画家のとるにたらぬ絵」と揶揄られることになってしまう。構図的には、それこそHokusaiらが描いた春画の様でもあるのだけれど、あちらは色艶やかに彩られた木版画であるのに対して、同じ版画でもこちらは無彩色の、殆ど線描に近いリトグラフ。「狂った老人の支離滅裂な落書き」として、信奉者でさえ眉を顰めることとなる。
成功して、お金持ちになって、本来なら老境の、あるいは仙境に至る頃だというのに、年若い愛人と羽目を外しているのをみて、ヤッカミもあったのでしょう。大作「ゲルニカ」の後だけに、一時代を築いた前衛芸術家が描くようなものではない、類い稀な才能も枯らしてしまったと思われもしたのでしょう。

一方、静物画の多くは「ゲルニカ」以降、「晩年の時代」に至る頃に製作されたもので、古典的な題材を描いたそれらは、ピカソらしくもあるのだけれど、往時の衝撃的な大胆さは影を潜めたようにも見受けられる。静物だけに躍動感も見られず、何を描こうとしたのか。油彩画や水彩画、自筆画との差別化を考慮してのことだったのでしょうか。
神話と古代」共々、中世から続く定番的な「主題」に敢えて挑んだということなのでしょうか。19世紀末からのギリシア・ブームの影響やクライアント、画商からの依頼もあったのでしょう。
古典絵画に秘められた寓意、暗喩が、近代になり印象的、象徴的な手法で炙り出された後、それを角度を変えつつ直接的に表そうとしたのでしょうか。
私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」という言葉と、大きく歪んだ構図、構成、この繋がりは・・・?
水墨画を想わせる様な闘牛図があったり、画面構成はシンプルながら、摺師とのコミュニケーションによって得られた新技法は幾つもステーツを重ね、そこからヴァリエーションまで生み出して。

第2章 過去の巨匠たちへの賛辞』へ進むとさらに謎が深まる。
偉大な先達作品のピカソなりの模写。オリジナリティまで半ば放棄しちゃったようにも思えてしまう。その偉業を称えつつ、「オレならこう描く」という挑戦だったのでしょうか。
Bad artists copy.  Good artists steal.下手くそは真似て、上手な芸術家は盗むと、開き直りとも取れる発言もしちゃってますが・・・。
ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin 1594年06月15日 - 1665年11月19日)やジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres 1780年08月29日 - 1867年01月14日)、ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez 1599年06月06日 - 1660年08月06日)、レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn 1606年07月15日 - 1669年10月04日)などの作品がその餌食(?)。
エドゥアール・マネ(Édouard Manet 1832年01月23日 - 1883年04月30日)描くところの「草上の昼食」・・・の模写の模写は、先達て『プーシキン美術館展』で拝見したクロード・モネ(Claude Monet 1840年11月14日 - 1926年12月05日)版の「草上の昼食」と対比させると面白いが、この錚々たる顔ぶれの傑作を弄っちゃって、それは粗悪なパロディにも見えて、そりゃあ、画壇のエライひとや煩さ方の評論家から非難されても仕方ないかもと思ってしまう。
その画題も救世主を描いた「エッケ・ホモ (Ecce homo)」だったり、ギリシャ神話に登場する神々だったり、或いは「オランピア(Olympia)」や「オダリスク(Odalisque)」など一糸纏わぬ女性像も多くて、それら傑作芸術に対する冒涜とも見れなくもなくて、「不能老人のポルノ幻想」、「狂った老人の支離滅裂な落書き」と言われるのも已む無しとも思えてしまう。
しかも、ややこしいことにそれらが直接の模写ではなく、間にジル・ルスレシャルル=シモン・プラディエジャック・ヴィヨンピエール・オードゥワンに拠る版画化が入っているところ。
この催しに対比展示されるのは、それら版画化されたもの。オリジナルを眼にする機会が無かったにせよ、模写の模写、なんだかアタマの中までモシャモシャしてきそう?!
もしかして、最初の模写が不出来と見て、オレならこうするという・・・ということだったのでしょうか。
何をどう描いても「芸術」になるという驕りかもしれないし、芸術の間口を押し広げ、後に続く者たちに、「オレを真似てみろ、オレを超えて見せろ」と挑発とも取れる。確かに、難しい。

支離滅裂な落書き」っぽくはあるけれど、色彩を省き、輪郭線まで極端に省略。見様によっては、禅の極意の様でもあり、侘び寂びに繋がる様でもあるのだけれど、恐らくそんなことは考えていなくて、ただ描きたいものを描きたいように描いただけなのでしょう。
一見シンプルで動きもないように見えるのだけど、そのピカソ独自のフィルターの向こうには、途轍もない情報量が潜んでいて、躍動していて、観れば観るほどクラクラするほど。例えば、10進数を16進数に変換しちゃったイメージ?? 桁数を減らして、軽くすることが出来ると、コンピュータ的発想とも観えてしまう。

版画作品に限らず、ある時期以降、ピカソの作品には製作された日附が書き加えられて、ある意味、ちょっと絵日記風?! 油彩、水彩、クレヨンにエッチング、ドライポイント、リトグラフ、リノカット、木版画、et cetera。更に、彫刻や陶器。手を替え品を替え、新しい技法まで模索しながら、70年近く綴った膨大な絵日記。
私は或る人びとが自伝を書くように画を描く。絵画は完成していなくても、私の日記の一頁なのであり、そのようなものとして意義があるのだ」という言葉をフランソワーズ ・ジローに残したという。日記で自伝。老境に至ってそれは、自らを画壇へと招いてくれた、導いてくれた先達作品の模写・・・写経にも似た心境で描かれたのではないか・・・と評するのはちょっと裏読みし過ぎ・・・と言われそうですね。日本的感覚過ぎる気もします。
天才にしろ秀才にしろ、非凡な才能を持った偉大な芸術家。ワタシの理解の及ぶところではないのかも知れませんが、ワタシに少なからずインスピレーションを与えてくれて、「観て、考えろ」と叱咤されているようで、誰がどう非難しようが、貴重な作品の貴重な拝観ではあるでしょう。
芸術=アート」とは、製作者が宣言するものではなく、評論家が選定するものでもなく、鑑賞者がその胸を突き動かされたかどうか、面白いと感じたかどうかで択むもの。ワタシは、「不能老人のポルノ幻想」、「狂った老人の支離滅裂な落書き」を面白いと感じます。
得難い体験をさせて頂いたように思えます。
ただ、・・・。
殆どが色を伴わない線描的な版画とあってか、カラフルな油彩画ほど豊かな音楽を奏でない、聴こえない。
音は鳴っているのですが、旋律を伴わないオーケストラ・ヒット(オーケストラル・ヒット、オケ・ヒット)が、[ジャンッッッ!!!!]と一発。
50〜60人編成の管弦楽が鳴らす、Bm7(♭5)・・・ビーマイナーセヴンスフラットファイヴ。指揮者のタクトが居合抜きばりの速さで振り下ろされて、それに呼応する様に鳴る、速くて厚くて大音響のオーケストラ・ヒット。
絵画と対峙し、じっと視詰めていると[ジャンッッッ!!!!]と鳴って、残響が永く耳に残る。
それは、そのインパクトの強さからワタシのアタマの中だけで鳴る衝撃音・・・なのかも知れません。

IMG_E0860.jpg
IMG_E0861.jpg
IMG_E0862.jpg

それら約100点を2時間かけて観ていたら、クラクラするほどの衝撃でもあり、クラクラするほどカロリー消費、エネルギーの消耗が激しくて、ランチは新阪急ホテル京都地下1階にあるバーラウンジ「リード」で期間限定の「ステーキ山菜ピラフ」。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント