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ウィーン、夢の街 [音楽のこと]

今日の「ワンコイン市民コンサートシリーズ第70回『佐藤卓史ピアノリサイタル<ウィーン、夢の街>』」はオーストリアウィーン(Wien)が舞台。
ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ(Vindobona)がその歴史の始まりで地名の起こり。その後ハプスブルグ家が支配するオーストリア帝国から神聖ローマ帝国の帝都となって大いに繁栄し、多くの音楽家が去来する「音楽の都」、「楽都」としても栄華を極める。
その綻びは、第一次世界大戦での敗北。それを機に、大帝国は瓦解、ナチスが支配するドイツに併合され、次の大戦でオーストリア共和国となって今日に至る。
舞台はそのウィーン、そこを往来した作曲家たちが今日の主人公。


ウィーン二千年の歴史をたった数行に纏めちゃっていいのかしら? いいんです、時間がありません。
何しろ、「音楽の都」を闊歩した作曲家として本日のプログラムにご高名を連ねるのは錚々たる顔ぶれで、それをご紹介するだけでも大仕事。

音楽の都」に足を踏み入れた音楽家、作曲家は星の数・・・なのでしょうが、全てを網羅するととんでもないことになってしまいます。そこで、本日は、音楽の三大要素のひとつハーモニーに着目し、調性音楽が無調へと変移、機能和声が分解されて、新たな音組織として再生される変遷を辿るプログラム。それも、ピアニスト佐藤さんのリサイタルですから、鍵盤楽器奏者としても活躍した作曲家の、厳選されたピアノ曲限定。
それなら、フレデリック・ショパンも俎上にあげて頂きたいところですが、彼はウィーンを通り過ぎてパリまで行っちゃいましたから・・・?!

では早速、神聖ローマ帝国時代のアマデウス・モーツァルトからオーストリア共和国でごく最近までご活動されていたポール・コントまで、二百数十年にわたる楽都の音楽的歴史を巡る旅・・・『錦秋のウィーン・魅惑の楽都周遊ツアー』に参りましょうか。

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このツアー、集合が14:30、出発が15:00となります。
その行程は、
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756年01月27日 - 1791年12月05日)
    「ロンド ニ長調 K.485」(1786年)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770年12月16日頃 - 1827年03月26日)
    「ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 作品53 『ワルトシュタイン』」(1803年)
フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert 1797年01月31日 - 1828年11月19日)
    「ウィーンの淑女たちのレントラー(16のレントラーと2つのエコセーズ) D734」より(1822年)
        『第1番』、「第4番』、『第7番』、『第10番』、『第14番』、『第15番
                ~ 休憩 ~
ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms 1833年05月07日 - 1897年04月03日)
    「4つのピアノ曲 作品119」より(1892年)
        『間奏曲 ロ短調』、『間奏曲 ホ短調
アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg 1874年09月13日 - 1951年07月13日)
    「6つのピアノ小品 作品19」(1911年)
アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg 1885年02月09日 - 1935年12月24日)
    「ピアノ・ソナタ 作品1」(1907-08年)
エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(Erich Wolfgang Korngold 1897年05月29日 - 1957年11月29日)
    「4つの小さな楽しいワルツ」より(1911年)
        『マーギット』、『ギズィ
ポール・コント(Paul Kont 1920年08月19日 - 2000年12月26日)
    「12のワルツとコーダ(「漆黒で絶望的なワルツ」)」より(1971年)
        『第1番』、『第4番』、『第6番』、『第7番』、『第11番』、『第12番』、『コーダ

ウィーンまで・・・となったら、ジェット・プレーンをリザーヴしないと。神聖ローマ帝国まで溯上するとなったらタイムマシーンが必要か。
心配ご無用。ウィーンの森は待兼山庭園、王宮やミュージアム、オペラ座へと続くリング通りは理学部や文学部が並ぶメインストリート。随分こじんまりとはなってしまいますが、今日のツアーは大阪大学豊中キャンパス内。国立オペラ座に変わるのは、旧制浪速高等学校の校舎として1928(昭和3)年に建てられ、国の登録有形文化財建造物でもある、「旧イ号館」こと大阪大学会館

そして、このツアーを率いてくださるのは・・・、
1983年秋田市生まれ。4歳よりピアノを始める。高校在学中の2001年、第70回日本音楽コンクールピアノ部門で優勝。2003年のデビューリサイタルの成功により、翌年史上最年少で日本ショパン協会賞を受賞。東京藝術大学を首席で卒業後渡欧、ハノーファー音楽演劇大学とウィーン国立音楽大学にて研鑽を積む。その間国際舞台でめざましい活躍を遂げ、2007年第11回シューベルト国際ピアノコンクール第1位、2010年エリザベート王妃国際音楽コンクール入賞、2011年第21回カントゥ国際ピアノコンクール第1位、メンデルスゾーン国際ピアノコンクール最高位(第1位なしの第2位)など受賞多数。
これまでに、ピアノを目黒久美子、上原興隆、小林仁、植田克己、アリエ・ヴァルディ、ローラント・ケラーの各氏に、フォルテピアノを小倉貴久子氏に師事。内外の主要オーケストラと多数共演、世界各地で演奏活動を展開し、2011年にはシリア・ダマスカスのダール・アル・アサド文化芸術劇場でソロリサイタルを開催した。
2013年にはデビュー10周年を記念してソロリサイタルツアー「ベートーヴェン 4大ピアノ・ソナタを弾く」を開催、全国16都市で演奏し好評を博した。2014年より「佐藤卓史シューベルトツィクルス」を開始、ライフワークとしてシューベルトのピアノ曲全曲演奏に取り組んでいる。
室内楽奏者としても高く評価されており、著名奏者と数多く共演。2012年よりエリザベート王妃国際音楽コンクールの公式ピアニストを務めている。2007年にソロデビューアルバム「ラ・カンパネラ~珠玉のピアノ小品集」(ナミ・レコード)をリリース以来、レコーディング活動にも積極的に取り組んでおり、日本と欧州で多数のアルバムを発表。佐藤俊介との共演によるCD「グリーグ:ヴァイオリン・ソナタ集 全3曲」(ナミ・レコード)は平成19年度(第62回)文化庁芸術祭レコード部門《大賞》に輝いた。放送出演も数多く、現在はBSジャパン「おんがく交差点」にレギュラー出演中。作編曲・レクチャーなど活動の場は幅広く、実力派ピアニストとして注目を集めている。国際フランツ・シューベルト協会会員。
・・・なピアニスト、佐藤卓史さん。

ワンコイン市民コンサートシリーズ」には過去2回のご出演。「第22回『泉里沙プレイズ・ウィズ佐藤卓史』」でヴァイオリニスト泉里沙さんと共演し、「第45回『佐藤卓史ピアノリサイタル:全シューベルトプログラム』」ではライフワークとされているシューベルトの未完成ピアノ曲を補筆演奏。今回はウィーンへのタイムトラベルをツアーコンダクト?!
彼と共に我々を魅惑の楽都へと運んでくれるのは、大阪大学会館常設、「ウィーンの至宝」と呼ばれるBösendorferの1920年製Model252

時間となって、まずは1786年まで遡り、モーツァルトが30歳、ハイドンから賛辞を受けて、「フィガロの結婚」が空前の大ヒット、一番脂が乗っていた時期(?)に作られた、ソナタのような「ロンド ニ長調 K.485」から。
アマデウスは神童と呼ばれた頃にもウィーンを訪れ、女帝マリア・テレジアに謁見し、その末娘でのちに「ベルばら」、フランス王妃となる皇女マリア・アントーニアにプロポーズしたのも、今は昔。
今回フォーカスされるのは、故郷ザルツブルクでの宮仕えを辞して、フリーランスの路をさぐりつつ、ミュンヘン、マンハイム、そしてパリへと遍歴したのちの時代。かつては神童と呼ばれたアマデウス・モーツァルトも盛者必衰。同行した母はパリに客死し、彼もウィーンへと居を移した。そこでようやく手に入れた束の間の栄光。
その中で作られた、ミュンヘンやパリでの失意を忘れたかのような、この先に訪れる凋落を知らぬげな、コロコロ転がるような躍動感と幸福感に満ちて、なんとも愛らしい作品。
その主題は”ロンドンのバッハ”ことヨハン・クリスティアン・バッハの「五重奏曲」からの借用。それをコロコロ転調させつつも、どこにも無理や破綻のない、シンプルでナチュラルな曲調。ダイナミクスや装飾音の扱いに細心の注意を払わないと、ちょっと平板、退屈にも聴こえそう。それをデリケートに弾き分ける佐藤さん。それに応えて、澄んだ声音で歌うBösendorfer252が愛おしい。

今日の佐藤さんは、ピアニストでコメンテイターで、『魅惑の楽都周遊ツアー』を案内する引率者で添乗員(?)。とても、お忙しい。
演奏の合間には立ち上がって、ウィーン案内と作曲家のひととなりや活動の解説、楽曲の成り立ちを話される。
ワタシは全然存じ上げなかったのですが、なにやらTV番組にもご出演されておられるとか。それがあってか、お話しは流暢で分かりやすく、聞いていても面白い。演奏以外でも楽しませてくださいます。

で、2曲目は、モーツァルトに憧れて、ボンからウィーンへとお上りさんしたベートーヴェン。彼が最初に楽都を訪れたのは1787年、16歳の時。のちの楽聖さまはかつての神童に弟子入りを志願するも、折り悪く母の訃報。故郷へと戻り、その4年後にはモーツァルトも他界。1792年、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンに師事することとなって、ようやくウィーンへ移住。
ここで取り上げられるのは1803年に作られた「ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 作品53」。パトロンであるフェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵に献呈されたことから彼の名を戴く。ベートーヴェンをハイドンに引き合わせたのもこの伯爵さまの計らい。
耳疾から聴力は失われつつあり、『ハイリゲンシュタットの遺書』を認めたのちの、いわゆる”傑作の森”の中にある作品ではあるが、こと和声・・・和音としてみた場合は意外にシンプル・・・なのだけど、その進行がちょっと曲者で素直じゃあない。モーツァルトより少しだけ新しい?! この後のもっと新しい時代の音楽を知るワタシたちからみれば「フーン」って程度ですが、当時の伯爵さまやウィーンのヒトたちがこの楽聖さまお得意のレトリックをどう聴いて、どう受け止めていたのかが気になるところ。

そうそう、佐藤さんのご解説は、楽都やそこで活躍した作曲家のことだけにとどまらず、彼らが作曲装置として用いたピアノについても少し触れられて、その辺りも大いに興味を惹かれるところで、ここで語られるウィーンの歴史は産業革命の歴史でもあって、ハンマークラヴィーアがピアノフォルテへと変遷する時代でもある。ベートーヴェンは新しい楽器を取っ替え引っ替え、広がる音域に合わせて、作られる楽曲も管弦楽に迫ろうかと言うくらいにスケールアップ。モダンピアノで演奏すると低音域がちょっと煩く聴こえてしまうところを、佐藤さんは1920年製Bösendorferを宥めすかしてコントロール。
常設ベーゼンでも申し分は無いのですが、当時のエラール・ピアノや楽聖さまご愛用のピアノフォルテでの演奏も聴いてみたくなりますな。

前半最後はシューベルト。先の二人がお上りさんであるのに対して、のちに「歌曲の王」と呼ばれることになる彼は生粋のウィーン子。そして、偉大な先達が貴族階級をパトロンとするのに対して、奨学金を得てアントニオ・サリエリやハイドンに師事し、憧れのベートーヴェンとも知己を得たとはいえ、彼は市民階級の中の街楽師。音楽教師としての報酬で糊口を凌ぎ、友人・知人のカンパで生活を繋ぎ、宮廷や豪奢なお屋敷のサロンではなく、”友だちの輪”から”市民の輪”へと広がってのちに大々的な音楽祭へと発展する「シューベルティアーデ」、シューベルトを讃える音楽会を活躍の場とした。そのライフスタイルの違いが作風の違い。とはいえ、これはこれで、偉大な才能のなせる技。
1,000曲にものぼるシューベルト作品の中から選ばれたのは、「16のレントラーと2つのエコセーズ  D734」。「(ウィーンの美女たちを称えて)ウィーンの淑女たちのレントラー」とタイトルしたところがちょっとゲスい?!
レントラー(Ländler)」はゆったりした3/4拍子の南ドイツ風舞曲で、「エコセーズ(Ecossaise)」は2/4拍子のスコットランド風舞曲。18曲パックの舞曲集とはいえ、1曲ずつは1分ちょっとの、小品と呼ぶにも短過ぎる作品。彼はこんな小舞曲集を幾つも書いている。これじゃあ、「歌曲王」兼「舞曲王」?!
彼はまた、未完成曲が多いことでも知られるのですが、書き留めるより先に演奏してしまう、清書する前に日毎夜毎の音楽会で歌わせてしまう、踊らせてしまう。職業作曲家というより、即興演奏家だったんじゃあないかと・・・。今ならさしずめクラブのDJ?
この小舞曲集にしても、合間に多くのヴァリエーションを派生させながら、延々リピートしていたんじゃあないか・・・と思わせる曲風。
生活様式は違えども、まだまだ古典派の先人たちの影響大。
それほど知識が深くなくても理解し得るような平易な和声で美しい旋律を際立たせ、この頃に増え始めたプチブル階級にまで音楽の裾野を広げた功績は計り知れず。

休憩を挟んでステージの上のウィーンは19世紀末から20世紀に突入。
モーツァルトの時代に花開いた華麗なるバラベートーヴェンの頃には「フランス革命」によって断頭台の露と散り、その混乱を治めるための「ウィーン体制」も長くは続かず、ヨーロッパ全土を巻き込む「1848年革命」の影響からロシア、プロイセンとの「神聖同盟」は解体。楽都ウィーンも、それまでのオーストリア帝国からオーストリア=ハンガリー二重帝国の支配の下。
ハンガリーといえば、「ハンガリー舞曲集」・・・と、ちょっと強引?!
この時代にジプシー(ロマ)音楽を4手連弾ピアノ曲集に纏めたのは、「音楽の父」J.S.Bach、「楽聖」Beethovenとともに、「ドイツ音楽の3大B」と並び称されるブラームス(Brahms)。
「3大」に列せられている割りに、「父」とか「聖」とかの二つ名が用意されていないのがちょっと寂しい?
その大いなるプレッシャーから、完成まで21年を要した最初の交響曲は「ベートーヴェンの第10番」と称されて、ベートーヴェンの後継者として賛辞を得る。
まァ、後継者として認められよう、その期待に応えようとして、21年も掛けたのだから誠実な人ではあったのでしょう。
ドイツ・ハンブルグ生まれの彼は、長じてからハンガリー人ヴァイオリニストと演奏旅行し、その後ロベルト・シューマンとその妻クララの後を追うようにウィーン入り。そこで生涯を過ごすことになる(端折り過ぎ?)。
「ハンガリー舞曲集」に「ドイツ・レクイエム」、晩年はドイツの民族音楽に傾倒して、それが多民族国家の楽都で受けたのでしょうか。

次に参りますのは、ウィーン生まれのシェーンベルク。新世紀に相応しい(?)「十二音技法」の創始者とされるお方。ピアニストではなく、ヴァイオリンからチェロを経て、ほぼほぼ専業作曲家。
ウィーンで生を受けたとはいえ、父はハンガリー在住のユダヤ人で、母もプラハ出身のユダヤ人。裕福でもなく、苦労人。音楽的にも悩みに悩んだのか、ブラームスに傾倒していたかと思うと、リヒャルト・ヴァーグナーに惹かれ、紆余曲折あって、やがて独自の書法を見つけ出す。
今日取り上げられる「6つのピアノ小品 作品19」も調性を放棄してしまってはいるが、まだ新しい作曲方法の完成には至らず、試作か習作っぽい、苦心の垣間見える作品。
限定された解釈を拒絶するように、意味ないことを意味ありげに、とりとめのない会話でヒトをはぐらかすような・・・。コンサバティヴなウィーンにあって、こんなアヴァンギャルドが生まれるのだから、面白い。あまりにはぐらかしたせいか受け入れられず、楽都を追われることになるのだけれど、捨てる神あれば拾う神あり。ベルリンで教職を得て、第二次大戦が始まるとナチス・ドイツから逃れるためにアメリカ国籍を取得。従前の、理論的に正しいとされる音楽が本当に正しいのかどうか・・・と考え抜いて、「十二音技法」を完成させたのち、古典的な調性音楽に回帰しつつ、遠い異国の地で最期を迎える。

次に続くアルバン・ベルクは、シェーンベルクのお弟子さんで、同じくウィーン生まれ。
この辺りまで下ってくると、いわゆる現代音楽の領域にも近づいてかなりモダンではあるものの、演目として取り上げられることも少なく、耳にする機会がうんと減って、ちょっとマニアック?!
現代音楽というと、ちょっと難解なイメージが付きまとうけれど、師匠の「十二音技法」に倣いつつ、古典的な調性も織り交ぜて、後期ロマン派の終着点という感じでしょうか。同時代のドビュッシーに近しいようで、フレンチとは全然違うウィンナー風味?! 今では多くのピアニストに愛奏されるこの物憂げな「ピアノソナタ」もウィーンでの初演時には聴衆が暴動を起こしたのだとか。何がそんなに受け入れ難かったのでしょう。

モーツァルトベートーヴェンもいいけれど、時代的に、シェーンベルク以降が1920年製Bösendorferにジャストフィットしてスゴくいい」実行委員会代表の萩原先生から開場前にこっそりとそう教えて頂いていたのですが、そのアドヴァイスは嘘言でも嘘偽りでもなく、「ウィーンの至宝」がその本領を発揮して光り輝くよう。古典の大作も聴き応えはあるのですが、適度な緊張感と不安定感を伴った新しい時代の小品でも、ピアノ独奏というよりBösendorferの独白めいて、静かにさり気無く存在感をアピールするかのようで、なんとも理性的でいい感じ。あッ、それはもちろん、佐藤さんのテクニックとスキルがあってこそ。ピアノだけがスゴイわけではありません。

ベルクと同時代の天才児で、「モーツァルトの再来」と讃えられたのはエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト。何しろ、ミドルネームに神童アマデウスと同じヴォルフガング。さぞかし両親の期待も大きかったのでしょう。少年期からそれが開花するも、その厳格な父から前衛音楽への傾倒を許されず、ユダヤ系ということもあって、ナチス・ドイツから逃れるようにアメリカへ亡命し、生活の糧として映画音楽に着手。終戦後ウィーンへと戻るも、様変わりした楽壇には受け入れられず、再びハリウッドへと旅立ち、その地で病死。
前衛に憧れた彼が戻る頃には、コンサバティヴだった故郷がアヴァンギャルドに変貌。彼が望む音楽が実現したならば、戦争が無ければ・・・、と思うと、ねェ。
今日演奏されるのは、彼がまだ14歳(!!)の時に作った「ワルツ集」から『マーギット』と『ギズィ』。おかしなタイトルだと思ったら、当時のガールフレンドの名前なのだとか。色んな意味で、アマデウスばりの早熟ぶりを発揮していたのね。

プログラム最後は、ウィーン戦後派?!・・・な、ポール・コントの「12のワルツとコーダ(「漆黒で絶望的なワルツ」)」より。
ウィーンに生を受け、その地のアカデミーで学んだのちにロシア〜ユーゴスラビアからベルリン、ローマ、パリへ遊学、そこでちょっと毒っ気に中てられちゃった?! 『第3の調性』を開発するもあんまり知られていないのね。
漆黒で絶望的なワルツ」も、シューベルトのワルツ「高雅なワルツ集」と「感傷的なワルツ集」をモティーフとするモーリス・ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」のパロディオマージュ。ウィーン伝統の円舞曲を捻ってひねってウルトラC。「漆黒で絶望的」とまでは感じないけれど、十分に現代的。

こうして並べてみると、ここに登場する作曲家は何れも、「音楽の都」に在って”都人”では無い人ばかり。お上りさんだったり、貴族階級に憧れる市民であったり、ユダヤ人であったり、何らかの負い目を抱えていた方ばかり? その反骨精神から、保守的な”ウィーン風”に抗うように、新しい音楽を模索したのでしょうね。最先端を疾走するからこそ、抵抗も大きかったのでしょう。
ウィーンという窯の中で窯変した、一種異質な存在。曜変に因って得た星のような輝き、美しさから、国宝級にまでなった、まさに「音楽界の曜変天目茶碗やァ!!」的な・・・(笑)。
こんな異端者(?)ばかりではなく、「音楽の都」に相応わしい伝統音楽を連綿と継承してきた作曲家もいたからこそ楽都として栄えたウィーン。伝統と革新が鬩ぎ合うことで、そして何より、そこに暮らす人たちが(クラスを問わず)音楽を愛したからこそ活気が生まれていたのでしょうね。ちょっと羨ましくもあります。

二百数十年を一気に顧みる弾丸ツアーなウィーン周遊。佐藤さんの(お話しも含めて)テクニックもさることながら、それに応えて唄う「ウィーンの至宝Bösendorfer。たっぷりと楽しませて頂きました。
有りそうで類を見ない「都市限定タイムトラベル・コンサート」。「ワンコイン市民コンサート」らしいプログラムだったと思います。いっそ、『錦秋のウィーン・魅惑の楽都周遊ツアー』から『厳寒のモスコー巡礼ツアー』、『春爛漫のパリ漫遊ツアー』とか、シリーズ化して頂きたいくらいですな。

さて、次回、11月12日(日)は、〈作曲者と改編者の間にあるのは愛か、あるいは?〉をテーマに、ピアノ独奏にトランスクリプションされた楽曲がプログラムされる、『松尾久美ピアノリサイタル〈全改編曲プログラム〉』。
(ニコロ・パガニーニ×フランツ・リスト)+(ヨハン・ゼバスチアン・バッハ×ヨハネス・ブラームス)+(アルカンジェロ・コレルリ×セルゲイ・ラフマニノフ)=?
愛か、あるいは?〉。”ハテナ”がすごく気になるけれど、それは来月のお楽しみ。

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